古事記勉強会

ここ数日のうちに「ブログ拝見しています」とのありがたいコメントを何人からか戴いたので、私の中のブログ執筆ポイントが執筆条件を満たした次第です。

今日もいろいろありました。MOAの月例会にお邪魔をしたり、自民党青年部局の全国一斉街頭演説に参加をいたしました。その後には高知大神宮で行われた古事記勉強会、三翆園での第2護衛隊群、護衛艦「くらま」の歓迎レセプション。

中でも古事記勉強会、日本教育者連盟の代田先生のお話はいつも勉強になる。余裕のある口調、豊富な話題、その背景にはすさまじい努力とそれによって裏付けれた膨大な知識の引き出しが控えているのだろうと思う。

今日の古事記勉強会のお話は、須佐之男が天照大御神に事情説明をするために天界に昇った時のお話でした。天照大御神は須佐之男が何かよからぬ事情で天界に来るのだろうと考え警戒をします。須佐之男は邪(よこしま)な心は無いとして、天照大御神の証明せよとの言葉を受けて、誓(うけひ)をして子をうむことを提案しました。

天の安河を挟んだ二神が、それぞれ相手の身につけているものを噛んで吹き出した息から子が生まれます。須佐之男の身につけていたものから、天照大御神が生み出されたのは3人の女神。天照大御神の身につけていたものから、須佐之男が生み出されたのは5人の男神です。須佐之男はこの結果をもって「私の心が清らかであるから女神が生まれたのだ」と言います。ちなみにここで生まれた5柱の男神のうち、マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミと呼ばれる神がはじめて肉体をもった神であり、その子が天孫降臨で有名なニニギノミコトとのことです。

勝ち誇った須佐之男は天界で大暴れを始めます。天照大御神の耕す田の畦を壊し、その溝を埋めて、新穀を召し上がる御殿に屎を撒き散らします。天照大御神はその傍若無人な振る舞いに対して咎めず、「屎のようなものは酒に酔って吐き散らしのでしょう。また、田の畔を壊し溝を埋めたのは土地をもったいないと思ったのでしょう」と良いように言います。

この寛容の姿勢について補足すると、日本人には水に流すという言葉がありますように、どこかの国のように誰かが過ちを犯したことを1000年と咎めることはありません。それは日本人が人間は本質的には善性を帯びていると考えたからです。例えば、罪という言葉は「つつみ」が縮まったものであり、やまと言葉的解釈では人間の本来の善性が覆われ(包まれ)てしまった状態を指すのだとしています。だからこの状態を正すために禊ぎという儀式が存在し、包んでいるものを濯ぐ(雪ぐ)、あるいは削ぐことによって清らかな善性が現れると古代日本人は考えたのです。なるほどねと納得できるお話です、いまでもそういう考え方は息づいていますからね。古事記のこの一節には、古代日本人から続く、相手の善性を信じる姿勢というものが表れているわけです。

もう一点、天照大御神の田の話が出たので日本人の仕事観についても補足をします。よく言われている話ですが、キリスト教圏にいる人々にとって労働とは罰であり、それはエデンの園のアダムとイブが禁忌を犯してしまったゆえに課されたのだと言われています。なので彼らはホリデーを必要とします。一方日本人にとって労働とは、勤労という言葉があるように奨励されるべき行為です。さきほどの一節にもありましたように、天照大御神ご自身が営まれている田があって、神であろうと人であろうと等しく労働に勤しむことが良いことであるとされています。このような考え方を古代から営々と守り体現されている宮家では、天皇陛下ご自身が田植え、稲刈り等を行われていらっしゃいます。これまた余談ですが、明治4年に昭憲皇太后が始められたご養蚕は、今日美智子皇后も脈々と受け継がれていらっします。ここで細々と飼育されていた古代種の「小石丸」の絹糸が、正倉院所蔵の宝物を復元するにあたり欠かすことができなかったという逸話が残されています。

さてお話を元に戻します。須佐之男の悪さはエスカレートしていきます。天照大御神の機織り場で神様の御衣服を織らせているところに、須佐之男はその機屋の屋根に穴を開け、天の斑馬の皮を逆さに剥ぎ取って落とし入れます。すると天の機織女(あめのはたおりめ)はこれを見て驚き、梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまいます。

機織りとは経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を組合せて布を織り上げることを言います。ここから転じて、ものごとのいきさつのことを経緯と表します。仏教において経論という言葉がありますが、これは世の中の縦(経)の流れ、理について明らかにするという意味を持ちます。含蓄のあるお話ですね。天の斑馬(フチコマ)とは、斑目模様の馬のこと。馬は速く走ることから時の流れや、進み方を意味する言葉として使われることがあって、斑目が過去と未来(黒と白)と解すれば天の斑馬とは時間の概念ということになります。皮を逆さに剥ぎ取って落とし入れるとはつまり時間が遡る状態、あるいは止まっている状態、めちゃくちゃな状態を指すのだろうということです。いろんな解釈があるようですから、個々納得のいく解釈を探せば良いのだろうと思います。そして最後に、機織りの道具である梭(ひ)とは横糸とする糸を巻いた管を舟形の胴部の空所に収めたもののことであり、これが機織女の女性の陰部(ほと)、つまり生命の生まれ出るところに刺さったとのことです。やまと言葉的解釈によると「ほと」とは「ほ」・・・火、「と」・・・場、とする聖なる場所を表す言葉だそうです。イザナミが最後に生み出した子は火の化身であり、それが「ほと」を焼きイザナミを死に至らしめてしまうお話は有名ですね。

このあとは有名な天岩戸のお話に繋がるわけですが、代田先生の今回のお話はここまででした。次回は7月13日13:30から高知大神宮にて開催されます。参加費は1,000円。ご興味のある方はぜひお越しくださいませ。

古事記とは関係ありませんが、代田先生は第16代仁徳天皇のお話もご披露されておりました。良いお話ですので紹介いたします。

仁徳天皇は5世紀前半に実在した方とされています。
仁徳天皇が即位されてから4年目、高台に登られて家々を見下ろされた時にどの竈(かまど)からも煙が出ていないことに気づかれます。これを受けて国民は苦しい生活をしているのだからと3年間年貢を免除することにしました。その間に、御衣服や宮殿はみずぼらしいものになってしまいましたが、そのままにしておいたということです。そして3年後に再び高台に登られたとき、あちこちの竈から煙が立ち込めていることを見届けます。その時に仁徳天皇は「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」と仰られます。

高き屋にのぼりて見れば煙けぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

皇后陛下は不思議に思い、「私たちの住んでいる皇居の垣は崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われます。仁徳天皇は、「政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」とお答えになりました。そのころ、諸国の民より「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこのまま、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰が下るでしょう」といった申し出がたびたび行われるようになります。さらに3年間の年貢の免除を行った後に、この言を受け入れて宮殿の修理をお許しになったそうです。

その後はともうしますと、「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」ということで、日本最大の前方後円墳・百舌鳥耳原中陵がお墓が作られたのでした。

事程左様に仁徳天皇はじめ、初代の神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼び、大切にされました。天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛する、天皇と国民は家族である。これが日本人が一貫して持ち続けた理想的日本の在り方です。このようなお話は、古事記、日本書紀、様々な和歌や歴史的事実等を通してだれでも知ることができますので、是非ともお勉強してみてください。