門田隆将さん続き~ネット新時代のジャーナリズムを考える 朝日新聞は何に敗れたのか

ようやく終いをつけようとしております。

結論から先に。

ネットの登場によって、イデオロギーによって歪められた報道ができなくなった。朝日新聞はそのことに気付かない限り、凋落を免れないであろう。

といった内容でした。

 

事件のはじまりは吉田調書。
(福島第一原子力発電所事故当時に、福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎が「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」(政府事故調)の聴取に応じた際の記録の通称 wikiより)

朝日新聞社は、政府が非公開としていた「吉田調書」を独自に入手し、5月20日付1面などで「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じました。ちなみに見出しは「原発所員、命令違反し撤退」です。

門田隆将さんは、「死の淵を見た男」という福島原発事故を題材としたノンフィクション本を出版しています。その記述は、吉田所長はじめ、運転員へのインタビューを脚色なく、また自分の考えを交えることなく記述したもので、非常に資料的価値の高いものとして評価されています。原発事故後に現場で何が起こったかについての第一人者、世界一の専門家といっても差し支えないでしょう。

彼が台湾滞在中の5月20日、日本では朝日新聞によって先述の記事が発表されたのでした。膨大な問い合わせのメールや着信があって、事情を知らな本人は大変驚いたそうです。周りの知らせで経緯を知ると、朝日のオンライン記事にて問題の記事を確認をしました。見出しを見た瞬間に、いつものイデオロギー調で、また大変な誤報だなと思ったそうです。

門田さんによると、日本の報道には真実に基づく報道と、イデオロギーに基づく報道の2タイプがあるそうです。

前者は、取材を積み重ね、ありのままに報道を行い、解釈を受け手側に委ねるものです。後者は、イデオロギーを先行させ、自身の主張を正当化する内容になるよう事実をピックアップして組み立てたものです。
門田隆将さんは、後者の記事を書く記者が自身の正義をゆるぎなく信じているという特徴を捉えて、その症状を自己陶酔型シャッター症候群と命名しました。
たとえば、平和といえば反戦。その主義主張を貫く自分に正義がある。自分カッコイイ!自分の意に沿わない主張をするものは反戦の反対で戦争を推進する輩、平和の敵!右翼!といった風です。

さて話を戻しますが、日本に帰るなり門田さんはブログに朝日新聞の報道は誤報であるとの記事を掲載しました。これを見たネットユーザーから情報が拡散し、大手ブログの紹介サイト?なるところに掲載されると、週刊誌から記事を書いてくれるよう依頼が持ち込まれます。

これを契機として、門田さんは、所長と所員への直接インタビューに照らせば、朝日新聞の件が誤報であることは疑いようがないと、ありとあらゆるメディアに対して説明を行っていきます。その間には、朝日新聞から名誉毀損で訴えるという連絡があったそうです(笑)

そしてある日、某新聞社から吉田調書を手に入れた旨の連絡があります。某新聞社は総力をあげて調書を精査し、朝日新聞の言う「命令違反し撤退」が無いことを確認したのでした。その後吉田調書が各メディアに出回り、それぞれが朝日新聞の報道が誤報であったことを伝えました。朝日新聞が完全に包囲されたような状態に至って、ついに自らの誤りを認め、謝罪を行ったのでした。これが平成26年9月11日のこと。

この後に、朝日新聞井村社長は、社員を激励するために以下のような激励メールを送っていることが明らかとなっています。


 

「長年にわたる朝日新聞ファンや読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から、「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励を頂いております」
「2年前に社長に就任した折から、若い記者が臆することなく問題を報道し続け、読者やASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の報道にひとつの「けじめ」をつけたうえで、反転攻勢に撃って出る体制を整えるべきだと思っていました。
今回の紙面も揺るぎない姿勢で問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えております」
「問題を世界に拡げた諸悪の根源は朝日新聞といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力り断じて屈するわけにはいきません」
「私の決意はみじんもゆらぎません。絶対ぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらがこち国益にかなうかなうアプローチなのか


 

門田隆将氏の言う、自己陶酔型シャッター症候群という言葉がこれほどしっくりくるとは・・・恐るべし。自分たちの正義がいささかも揺るがないと考えている。そして、自分たちの意に沿わない人間は、偏狭なナショナリストで中韓との関係を悪化させ、戦争の惨禍を再び招こうとしている危険なやつらだと、レッテル貼りをしているのです。この話を披露した門田氏は、会場にいた人たちに対して、「朝日新聞の言う『彼ら』とは会場にいらっしゃるみなさんのことを言っているのですよ」と戯け、ドッと会場を沸かせていました(笑)私の知る限りでは、本気で戦争を望んでいる人など周りにいませんがな。

さて、事程左様に、巨大マスメディアの朝日新聞が、一人のジャーナリストに屈してしまったのでした。一昔前ならば、大手メディアが何を書こうがやりたい放題だったのですが、情報発信に双方向性を持つネットの登場によってそれができなくなった。それぞれの分野でスペシャリストと言われる人たちがいて、彼らがメディアの過ちをネット上で指摘をすれば、時にそれは大きな流れを起こし、巨人を引き倒してしまうことも可能となったのでした。もしこのことに気付かず、あるいは見て見ぬふりをして、従前どおりイデオロギーに基づく記事を書き続けた場合、その媒体の末路は目も当てられないものとなるでしょう。真実、その特攻 の話と通底するところがありますね。

以下は余談です。

ある日、門田氏のもとに吉田所長が訪ねて来たそうです。吉田所長が言うのには、彼の福島原発について書いた本を読んだ人たちから、門田氏を訪ねるように幾度と無く言われたから、会いに来たとのことでした。その後、病床の吉田所長は、息子に対して門田氏の本を読むように言付けました。「これが現場の真実の声だ」と。

さらに、門田隆将氏は、福島4号機の副所長から聞いた印象深いエピソードについても語ってくれました。この副所長も名を同じく吉田と言うそうです。事故直後ベント開放に行く奴はいないかと吉田所長が聞きました。全電源を喪失した環境下、当然原子炉建屋は真っ暗闇、足場も悪く、また大量の放射線が生じています。死を覚悟した上での作業です。その時に「はい」と手を挙げたのが四号機の吉田副所長その人でした。インタビューの中でなぜ志願をしたのかを尋ねたそうです。吉田副所長が言うのには、「自分は10年前に東京電力に技術者として入社した。自分が最初に担当した炉が1号機であった。つまり自分という技術者の育ての親が1号機であったのであり、そのことに心から感謝をしている。そして、もう1つ。原子炉にもそれぞれ性格がある。優しいやつもいれば、気性の荒いやつもいて、それぞれ違うのだ。1号機はじゃじゃ馬だけれども、本当は心根の優しいやつなんだ。その優しく、育ての親でもある1号機が原因で、日本をダメにしてしまうかもしれない状況にいてもたってもいられなかった。だから私はそれを止めるために志願をしたのだ。」

 

福島原発だけでなく特攻もしかり、各々の時代に、家族のため、祖国のために命を賭した人がいて、お陰様で今日の私達があるわけです。その積み重ねが伝統や文化を織り成し、さらには精神や血肉となって日本人を形づくる。今日においても、先人同様に自身の命を賭して、世のため人のために次代のために尽くす人がいることに何の不思議があろうか。

門田隆将さんの講演

先週末の25日、今週日曜日の26日、門田隆将さんの講演を聞きに行っておりました。
素晴らしい内容でしたので、その概略について紹介したいと思います。

25日@高知城ホール
「特攻、その真実」

わかる人にはわかる会場です。主催は高知大学の先生、教育学部 加藤誠之准教授です。

まず主催者挨拶として加藤先生からお話がありました。

・永遠の0が大ヒットした
・高知大学の学生たちにも大ウケ
・特攻隊の姿に感動した、お陰様で今があるとの感想
・この生徒たちの反応に危機感を抱く
・戦争の記憶が風化し
・戦争を美化する傾向にあるのではないか
・本講演を通して、特攻、その真実について触れ、多様な角度から検証することにより
・この流れに歯止めをかけたい

といった趣旨だったと思います。(この導入に怒った人が何人か帰ったようです)

そのお話の後に、満を持して門田隆将さんの講演。
ジャーナリスト門田さんが良い取材をするためにまず心がけることは、取材時には対象者のお話くださっている時間と空間に身を投じることだそうです。
今回のお話をするにあたっても、特攻隊員の生き残り、あるいは関係施設で働いていた方に直接インタビューを行いました。その際には今日の価値観を捨て去って、当時の人が何を見て聞いて感じたか、これをできるだけ忠実に追体験・再現できるよう心がけます。

さて、本題の特攻のお話ですが、

平成26年10月25日は、フィリピン、マバラカット基地から敷島隊による最初の神風特別攻撃が行われてからちょうど70周忌にあたる日。

まず特攻の前段として理解しておかなくてはいけない当時の背景は、日本軍の劣勢はもとより航空機パイロットの練度が極端に低下をしていたこと。マリアナ沖海戦、フロリダ沖海戦などでたくさんの熟練パイロットが失われていたこと。レイテ沖海戦では、海上で戦うことを前提に訓練をされていない陸軍の航空パイロットが投入されたほどの人材不足であった。天文航法によって水平や位置を把握する海軍に対して、陸軍は地文航法を採用していたため、海上で天地や方位の感覚を失ってしまい、敵機に七面鳥撃ちと呼ばれたように容易に撃墜されてしまったり、洋上に墜落することがあったということなど。

こういった背景のもと、空母への最も有効な打撃を与える方法はこれしかないということで、神風特別攻撃隊が編成されることになった。マバラカット基地で編隊を命ぜられた玉井浅一中佐のもと、甲飛10期生33名に対し、「25 番(250 ㌔爆弾)を零戦にハンダ付けして、貴様たち突っ込んでくれ」と志願が募られる。(ハンダ付けとは暗喩であって本当にハンダ付けをしたわけではない。)門田さんのインタビューによると、実際には候補者は40名程度いたとされ、その誰もが特攻の希望者を募った際には押し黙ったそうだ。その後しばらくの間を置いて、半ば雰囲気に圧された形で志願者の手があがると、上官から間髪入れずによしわかった、よろしく頼むという旨の締めの言葉があったとのこと。

神風特別攻撃隊の出だしは順調ではなく、最初の2度の出撃は空振りに終わっている。敵艦発見の報がもたらされても、特攻隊が現地に到着する数時間後には敵艦隊を見失ってしまっていたのである。軍上層部の中に特攻隊に対する冷ややかな声があがりはじめた頃、三度目の出撃にて関大尉率いる敷島隊による初の特攻がなされた。(最初の特攻が関大尉率いる敷島隊かどうかには異論もあるようです)

この第一次特攻隊には高知出身者が3名含まれており、その中の宮川正さんには豪快な逸話が遺されています。宮川さんは、周囲の張り詰めた空気の中にもかかわらず、自分は無駄死をしたくないのでどのような飛行方法が最も特攻の成功確率が高いか、みなさんの意見を聞かせていただきたいと周囲に相談したという。

戦後教育の中で、世間一般には、特攻とは天皇陛下万歳といった掛け声のもとに、悠久の大義のために、国家のために特攻がなされたと理解されているようですが、必ずしもそうではないと。関大尉におかれては、特別攻撃隊の編成の決まった20日の晩の記者取材に対して、「俺みたいな優秀なパイロットを殺してしまうなんて、もう日本はだめなんだ。もう日本はお終いだよ」そして「俺は天皇のためとか、国のために行くんじゃない。もし日本が負けたら妻が米兵に暴行されるかもしれない。だから俺は彼女を守るために行くんだ。どうだ、素晴らしいだろう。」と返答している。

さまざまな事情によって生き残られた特攻隊員に対して取材を行った際には、関大尉同様に、家族のためにいったのだという話が大勢を占めたそうです。

それともうひとつ。当時の特別攻撃隊は十代後半から20代前半の学徒出陣によって徴兵された人々が多く参加していました。旧帝大等に在籍していた彼らは、今よりもはるかに厳しい受験戦争をくぐり抜けた、同世代上位0.4%のエリートによって構成されています。親の溺愛も今以上であり、入隊式には家族が大挙して押し寄せるということで、巷の混乱を避けるために陸軍と海軍の入隊式の日を数日ずらしたほどです。さらには、艦船に配備された息子可愛さに、上陸の自由時間を少しでも長く一緒にすごすべく、海軍基地周辺に母親などが下宿をしていたこともあったそうな。そのような環境下にあった学徒たちがどのような気持ちでこの戦争、特攻に臨んだのかということには、門田さんも大変興味を惹かれインタビューを行います。

まず、彼らの多くは反戦であった。頭脳明晰な彼らからすれば戦争などするべきではないとの結論に至るのは当然のこと。それでもなぜ戦地に赴いたのかと聞くと、この戦争に負けたならば、白人がこれまでアジアやってきた過酷な植民地支配が日本にも及ぶからだと答えた。有色人種を動物としか考えていない白人から、家族を守るためには戦うしかなかった。年老いた両親を、まして自分より幼い弟、妹達を戦場におくることはありえず、自分がいくしかないのだと。そして、中でも最も頭脳明晰で操縦技術の巧みな人間から死地に赴いくことになる。特攻の生き証人はその方々に対して本当に申し訳ないと涙を流しながら語ったそうだ。

もうひとつ。元山航空隊 第一 七生隊の宮武信夫大尉(隊長)と日系二世の松藤大治少尉のお話。松藤少尉は日系二世として生まれ、小学校までアメリカにて過ごす。二重国籍であり、徴兵を断ることができるにもかかわらず(日系で断った人はいる)、彼はこれを受け入れた。

朝鮮の元山航空隊に配属されたのちは、持ち前の運動神経と頭の良さでメキメキと操縦の腕をあげ、宮武信夫大尉と並ぶまでになる。宮武大尉に寵愛された彼は、大尉が「俺は特攻に行く。お前たちもついて来い」と言うと、すかさずこれに応じたそうな。彼だけでなく、生徒たちは特攻という思想には賛同できないものの、大尉にはついていきたいと答えた。

「日本は戦争に負ける。でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」
松藤少尉が福岡の親戚に残した言葉。

特攻の前夜、人々が落ち着かないままでいると、身長183センチの松藤が大きなヤカンを2つ提げてやってきた。中にはお酒が入っており、人々は最後の盃を交わしたのだった。眠れるものもいれば、そうでないものもいた。彼なりの気遣いであった。

出撃の朝、整備兵が資材の木をプロペラにぶつけてしまい、片岡機が飛べなくなるアクシデントに見舞われる。片岡氏を残して、七生隊はつぎつぎに空に飛び立つ。そらをおおわんばかりの特攻機の姿を見て、片岡氏は実に立派、実にあっぱれと感じ、勝てるはずのない戦争にひょっとして勝てるのではないかとの錯覚をおぼえたそうだ。

4月6日、七生隊は沖縄の海にて、米軍艦隊34隻に損害を与えた。

話は遡るが、宮武信夫大尉は、出発前に自由行動を許された際に実家に足を向けたことがあった。家族からどうしてもと一筆(いわゆる絶筆)を依頼されると、彼の書いた文字は「断」の一文字であったという。将来の夢、家族や友人、さまざまな物を断っていくという壮絶な決意が伝わってくる。

特攻ののちに、宮武信夫大尉の遺品が遺族に返されることがあった。遺品の中に一つだけ足りないものがあることに気付いたそうだが、それは以前渡してあった母親の写真とのこと。彼は母親の写真とともに沖縄の海に向かい、特攻し、その命を散らしたのであった。その母親からは、門田隆将氏が太平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦特攻編を出版した際に電話があった。作中に息子、宮武信夫の名前があることを人づてに知った母は、居ても立ってもいられず、門田氏に電話をし、「お陰様で息子の最後を知ることができました」とお礼を伝えたのであった。

時代は流れ、平成5年のこと。
元山航空基地で松藤少尉と日々を過ごした大之木氏という方(ちなみに門田氏は彼を通じて松藤少尉を知る)。彼は、松藤少尉の母、ヨシノさんがロスアンゼルスでご存命であること知ると、渡米を決意。彼は、昭和20年4月3日の最後の晩の松藤少尉の姿を、ヨシノさんに伝えに行ったのでした。

大之木氏の話を黙って聞いていたヨシノさんは、彼の話が終わると、
「男というものは、そういうもんです。国の大事には男はキパッとやらにゃ。大治は立派なことをして死んだんです。そうじゃないですか?大之木さん」車椅子に腰かけたまま、そう問いかけました。大之木氏はその瞬間、「ハイッ」と言って立ちあがって頭を下げたそうです。

大之木氏は言う、
「私たちは、たまたま1945年のあの時に軍人であり、若者でした。私は、戦友たちの死を無意味だったとか、可哀相だったとか、そういうことは言って欲しくないんです。ただ、ご苦労さん、よくやったとだけ、言ってやって欲しいです。」

 

以上、門田隆将氏講演「特攻、その真実」のおおまかなまとめです。少し調べて加筆してあったり、語尾が不統一であったりします。また何分、私の文章力が未熟なもので、伝えるべきことを伝えきれていないかもしれませんがご容赦ください。門田隆将氏が本当に言いたかったことは、翌日26日の講演の内容とあわせたときに、その輪郭がよりくっきりとします。また余力あるときに書きたいと思います。

長文失礼しました。

はりまや橋学区区民運動会

今日は清々しい晴空の下で、はりまや橋学区区民運動会が開催されています。
ちょうど良い天気というにはやや陽射しが強過ぎるようですが、昨年の雨模様のことを思えばありがたい限りです。

午前中は、二人三脚をはじめ3種目に出場しましたが午後からは別件です。
RKC文化ホールにて第五回高知県私学振興大会に出席いたします。

IMG_2587.JPG

「諸君、狂いたまえ!」

「諸君、狂いたまえ!」いいですね~、つぎの私のスローガンに使いたいくらいです。(9月定例会一般質問の案内)

さて、この言葉聞き覚えの有る方はなかなかの歴史通。実は幕末の傑人、吉田松陰先生の言葉なのです。吉田松陰と言えば松下村塾、松下村塾と言えば、伊藤博文、山県有朋、高杉晋作といった維新の志士たちと、つぎつぎ連想してしまい言葉がつきません。

さて、いまなぜ吉田松陰なのかと言えば、マクロな歴史的要請もあるけれどもそれは置いておいて、ミクロで言えば日本政策研究センター伊藤哲夫代表が教鞭をとられた9月の有志塾にて、吉田松陰がお題になったからなのです。

かつて私も吉田松陰先生の伝記を読んだことがあって、松下村塾にて素晴らしい人材を育て上げた人、国のことを真剣に思い、行動された人として尊敬しておりました。受講後に松蔭先生に対するイメージが変わったのかと問われれば、より一層尊敬の念が深まったことと、「諸君、狂いたまえ!」という言葉に先生のすべてが詰まってるな、もっともっと私も頑張らなくてはと思ったと、そう答えるでしょう。

人格形成や自身を奮い立たせるにあたっては、先人の活躍譚に勝るものはないように思います。小学校の時は、学校図書と移動図書の蔵書の中から、吉田松陰をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、エジソン、ファーブルなど偉人の活躍について綴られた伝記物を引っ張り出してきて貪るように読んだ覚えがあります。こんな立派な人になりたい、世のため人の為に役に立ちたいと大変影響されました。そこに小学校周辺がど田舎ということも手伝って、サボるとか、寄り道をするとか、ウソをつくなどという言葉は私に限らず、学友の頭の辞書にもなかったように思います。

話を戻しまして、吉田松陰先生の生い立ちについてふれいたいと思います。
彼は1830年に長州藩に生をうけました。若かりし頃は、兵法学者として防備の在り方はどうあるべきかについて考えることが仕事だったようです。その情熱的すぎる行動力は、さまざまなエピソードからうかがい知ることができますが、そのひとつめが東北遊学です。

1852年、水戸藩の国学とさらに国防について学ぶために遊学に行くことを決意します。同行者の宮部鼎蔵と待ち合わせした日に藩の通行手形の発行が間に合わないということで、松蔭は脱藩をして東北に向かいます。当時において脱藩は死罪相当の重罪ですから、これには宮部も肝を冷やしたと思います。

東北で国学、水戸学に触発された松蔭は、その後水戸学をさらに深め、天皇を中心とした国家観を強く持つようになります。 『身(み)皇国(こうこく)に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。』その気概が充分に伝わってくる言葉です。すめらぎの国がどういう文化・伝統を持ってここに至るのかを知らなければ、これから進むべき道もわかるはずがない、目の前の枝葉末節のことを論じても仕方がないではないか、ということだろうと思います。私のもっとも基本的な政治信条もここにあります。

1853年には全日本人が震撼したペリー来航イベントが発生します。太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず、という有名な歌が残されていますね。今日的政治家や官僚にあたる武家たちは、来航の情報も船の構造等も知っていたようで、教科書が伝えるほどにひっくり返るような事態ではなかったようです。日本の学者たちも蒸気機関について書物上では知っていて、乗船時には確認する機会も与えられました。ただ圧倒的な工業力の差、戦力差は存在するわけで、そのことに居ても立っても居られない松蔭先生は、海外で実際に学んでくるとの決心の下、密航を企てます。まず一回目は長崎のロシア船で失敗し、さらに下田で再来航したペリーの黒船に乗り込んだまではよかったが、幕府との条約に抵触するとのことで渡航を拒否されます。下船した松蔭は真面目ですね、下田で自首して牢屋に閉じ込められます。私の座右の銘、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂 そのままですね。

長州に移監された松蔭は、まもなく杉家に幽閉処分となります。1857年、叔父の松下村塾にて教鞭をとり、有名な維新の志士たちの教育にあたるのでした。彼の教育方法の特徴はその情熱にあるというべきでしょう。教材については詩経五書をはじめすきなものを門下生に選ばせて、わからないところがあれば先生が答えるという方法をとります。それだけ自由度が高ければ、松蔭先生にも当然わからないところが出てくるわけで、その時は翌日まで待つよう言ったそうです。一晩掛けて勉強をして、目を真っ赤にした先生から、ここはこういう意味ですよと門下生は説明を受けました。門下生たちは、先生の情熱的な姿勢を見るうちに、この先生のために死のう、と考えるようになったそうです。さて、実際に教鞭をとったのはどのくらいの期間か大変気になるところです。あれだけの偉人を輩出されたのですから、6年、7年は指導されたのかなと想像するところです。しかしよくよく考えてみると松蔭先生は、1859年には処刑されていますので、叔父の塾をゆずり受けてから1年程度しか期間がないことがわかります。

これは驚きです。たった1年の教育で維新の志士、しかも明治期においても中心的に活躍する人々が育て上げられていたのです。いかに教育カリキュラムや教材が整っても、熱意に勝るものはないと痛感させられるに十分なお話ですね。

1859年の処刑に関わる話を少し致しましょう。1858年、日米修好通商条約を幕府が結んだことを耳にすると、松蔭先生は、天皇陛下の許しを得ずに勝手をしたことに激怒します。すぐさま倒幕すべしと長州のお殿様に相談をしますが、これに慌てた藩によって再度投獄されます。人生通算の投獄歴は5回とのことです。周り人々、門下生も血判状をもって思いとどまるようにと説得を試みますが逆効果。一部の門下生を除き破門、絶縁を言い渡されます。

その後の取り調べの中で、聞かれてもいない老中暗殺計画を暴露して死罪が確定します。松蔭先生としては、正しいことを主張すればわかってもらえるはずだと考えていたようです。ようするにわからないやつが悪いと。その信念は死の間際まで貫き通され、「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」との彼の言葉を残し、実に堂々とした最期を遂げられたそうです。

さて、ここでようやくタイトルの「諸君、狂いたまえ!」について解説。彼自身、自分のことを狂愚と言っていたそうです。ここでの狂人とは奇人変人ではなくて、溢れんばかりの情熱でもって積極的に行動する人のことを意味しています。ですから、門下生にはことあるごとに「諸君、狂いたまえ!」と訓示していました。その影響ははかり知れず、明治維新の原動力になっただけでなく、弟子の高杉晋作は自身を東洋の一書生ならぬ一狂生と名乗り、山縣有朋は山縣狂介と名前を変えさせたそうです。「諸君、狂いたまえ!」は、大きな時代の転換点、逆境にある今日の日本と高知にこそ必要な精神だと思います。

 

ブログ書いているだけでも感化されるから不思議ですね。いつの時代でも、良いものは良い、素晴らしいものは素晴らしいのです。ぜひ、まさに人格形成期にある人達に触れて頂きたい偉人伝です。ことほど左様ですから、今回の定例会では吉田松陰先生のお話をしつつ、偉人の伝記を手に取ってもらえるような機会、環境を整えてもらいたいと第一問目に質問をする予定です。

9月定例会一般質問の案内

高知県難病セミナー

朝は公共交通について勉強会、午後から県主催の高知県難病セミナーに参加中。26年5月23日に「難病の患者に対する医療等に関する法律」が成立しました。いままで難病対策は予算事業で行われていましたが、今回の根拠法の制定により、疾患別による不公平感の解消や財源の安定化、治療研究の推進等が図られます。
指定難病も56から300に増えます。その他には難病患者さんの社会参加の支援や国民理解の促進などが盛り込まれています。
地方自治体の今後の課題は、追加難病に伴う新規認定者への円滑な対応、着実な医療費支援、難病相談・支援センターの強化などが挙げられます。着実な実施、また必要に応じて制度改善に努めてまいります。

燃料電池の時代

昨今紙面を賑わしている燃料電池について記事を書こうと思う。

いまから10年以上も前のこと、大学の学部3年制のころになる。
私が学んだEnvironment & Energy コースでは、再生可能エネルギーをはじめとして核融合、核分裂といったニュークリアエネルギー、メタンハイドレート、(なぜか)船舶のこと、かろうじて環境に関係しているかもしれないリモートセンシング技術等をはじめとして、燃料電池についても学ぶ機会を得た。当時は本当に研究途上といった印象で、燃料電池の試験車両の開発コストが1億円とかそのような段階だったと記憶している。

あれから時が経つのは早いもので、10年もすぎれば技術も進歩する。いまでは700万円程度で市販車が手に入るようになった。といっても燃料ステーションが全国に40箇所足らずということでまだまだ普及には時間がかかりそうだ。

しかし、この燃料電池は必ず普及すると予測している。ぜひ知っておいてもらいたいと考えて、高知県議会自民会派のみなさんを連れて昨年にはNEDOを訪問したが、そのときの記事があるので原理等について詳しく知りたい方はそちらを参照いただきたい。記事:NEDOの燃料電池

なぜ燃料電池なのかと言えば、簡単に言えばガソリンが将来にわたって高騰を続けるからだ。そしてもうひとつは二酸化炭素による地球温暖化の問題がある。

ここでもう一つの疑問が頭をもたげる。次世代自動車といえば、燃料電池以外にも電気自動車があるではないかという問いだ。これに対する答えは棲み分けがなされる、とするのが適当かもしれない。電気自動車はその名の通り、バッテリーを搭載してそこから供給される電気でもってモーターを回転させ推進力を得る。しかしこのバッテリーの容量が枷であり、容量を増やせば重量も増えるので走行距離が必ずしも順調に伸びるわけではない。一方燃料電池は水素を700気圧に圧縮して搭載をしており、1充填当たり760kmの連続走行が可能と言われている。ということであれば、都市の通勤などでは電気自動車、長距離移動の際や大型バスなどは燃料電池車を採用するということになるのではないだろうか。

さて、燃料電池押しな理由はもうひとつある。これからガソリンにかわって、水素やメタン(CH4)、エタノール(C2H5OH)が活用されるようになるからだ。エネルギーの貯蓄は従来からの大きな問題であったが、水素という形態で保存することも視野に入ってくる。さらに製品の製造過程において副次的に発生する水素ガスは、現状未利用のまま廃棄されているが、その有効利用にも道がひらけるというものだ。都市ガスのパイプラインを使えば、端末に燃料改質装置を据えるだけで比較的容易に水素を供給できるようになる。そのほかには充填時間も電気自動車に比べて格段に短いといったメリットがある。

ちなみに純粋水素以外にも、水素に窒素を加えた水加ヒドラジンや水素化カルシウムなどの液体・固体と様々あたらしい水素系燃料が開発されている。各々課題があって、まだまだ主役を張れるような段階ではないが、注目度が上がればあがるほど研究開発も進むというもの。我々の社会生活に欠かせない燃料として君臨する日もそう遠くはないはず。

敗戦の日

昨日は五台山護国神社 献水の儀に参加して参りました。神社では高知出身あるいは高知に縁故を持ち、戊辰戦争以来の国難に殉じられた四万一千四百四十四柱のご英霊をお祀りしています。

10時に厳かに祭典が始まり、ご遺族の方々による献水も恙無く行われ、11:30ごろにはすべての儀式が遅滞なく終了しました。

祭典の途中には天上の甕でもひっくり返したかの様な豪雨がありましたが、祭典が終わりに近づくにつれて雨足は弱まり、最後にはすっかり上がってしまいました。

祭典の終わりに別役宮司から挨拶がありました。雨のことにも触れられて、今日の日に天と地を結ぶもの、実りと豊かさをもたらすもの、その架け橋である雨が降ったことに神意を感じると述べられておりました。

さらに、昭和19年に護国神社を参拝した学生の感想文が神社並びに国会図書館に現存しているというお話がありました。その年に県下の学生たちが靖国神社に集団参拝をする計画がありましたが、時局がそれを許さず代わりに護国神社を訪ったとのこと。付近の家々には提灯が掲げられ、それは盛大に執り行われたそうです。そのときの学生の感想文がまた立派なそうで、みなさんに是非読んでもらいたいとのことでした。

感想文はその日は社殿に置かれているとのことでしたので、改めて拝読しに参ります旨、宮司にお伝えいたしました。

お陰様で今日がありますこと、改めて先人に感謝。よりよい日本と高知に次代につなぐべく頑張って参ります。

IMG_2498.JPG

総務委員会のち憲法改正勉強会

午前は総務委員会、午後は自民党主催の憲法改正論点勉強会に参加しました!

勉強会の講師は百地章先生です。現行憲法の不備と改正案について復習

改正には国民の過半数の賛意が必要ですがこれを獲得することは容易ではないでしょう。実現には分かり易い説明あるいは段階的改正などのテクニックを駆使する必要があります。

IMG_2481.JPG

集中豪雨

台風12号の影響で、2日からずっと降り続いている雨。皆さんご存知の通り、総雨量はすでに1000ミリを超え、県内各地で避難指示・避難勧告等が相次ぎました。被害は多種多様で、中山間地域での土砂災害、南国市や須崎、さらには高知市内では河川が氾濫し、床上・床下浸水を引き起こしました。

私の住まう一宮もその例外ではなく、県道の冠水までは至りませんでしたが、市道の一部や農道は水路と見紛う様相。土佐神社のすぐ西側を流れる志奈袮川の水位は一部ですでに氾濫水位を超えていました。あと10数センチほど水嵩が上がっていれば、土嚢を超えて県道一宮マルナカ店前が水浸しになっていたでしょう。98豪雨の際に前科があるそうで、そういった反省から南側の下流からジワジワと河川拡張工事が行われていますが、まだ県道北本町領石線(東西の県道)以北が未着手です。

地域の方と情報を交換して、県河川に状況を連絡。追加の土嚢が必要になるかもしれない旨を伝えました。電話を入れて5分も経たないうちに河川管理を委託された事業者の方が到着。電話以前に見回りにでていたのだろうと思います。事業者の方は手際よく土嚢の嵩上げを行ってくださいました。(↓志奈袮川の写真)

おおよそ09:00頃が水位のピークのようで、その後は雨量の低下とともに水位も下がりました。今回は幸いにして大きな被害には至りませんでしたが、週半ばには台風11号も接近するということで(昨今のゲリラ豪雨の傾向からして)予断を許さない状況です。

一方鏡川は、ダムの放流が10:30頃に行われると氾濫水位ぎりぎりに達しました(参考:国土交通省テレメーター)。事態に基づき市内全域に避難勧告が出されると、私の携帯もけたたましくお知らせ音を立てたのでした。ダムの放流は浦戸湾が満潮から干潮に転じるタイミングとダムの貯水状況を見ながら行ったのだろうと推測します。放流の判断、精神的に大変だったろうと思います。担当者様お疲れ様です。

さて、治水の大切さを考えさせられる一日でした。まだ十分な治水事業が行われておらず、氾濫した地域や、直前まで達した地域など多々見受けられます。地方の公共事業は無駄、経済性優先といった論調が続く中で一律に予算が削られてしまい、その影響から事業着工が遅れたり、見直しにより未着手のまま放置されてしまったものもあるでしょう。中・長期的あるいは最悪の場合を想定して、必要な物は必要なのだ、そうしっかりと声をあげていくのが我々の役目であるということを改めて認識いたします。

もう一点、先人たちの偉業というかご労苦には本当に頭が下がります。自分が子供の頃には、台風が来る度にあちこちの山が滑り、河川が氾濫していました。ひと通り潰れるところは潰れたと言うべきか、かつての崩れた場所はコンクリートとアンカーで固定され、河岸はコンクリート製へと変えられました。子供ながらに、うなぎやサワガニ、魚釣りができなくなって非常に残念な思いをした覚えはありますが、先人のお陰様で水害による人的・物的被害が大きく減ったのは紛れもない事実です。今後更新する際には、魚道や魚の隠れる場所など自然に配慮した工事を行っていくことも大切ですね。

最近の勉強会について

書くネタがないわけではないのですが、お酒を飲んで家に帰るとそういう気力も湧くこともなく、気が付くとベッドの中でまどろんでしまっているのです。

さて、先週はいろいろとイベントづくしでした。
参議院議員宇都隆史先生による時局講演会、明推協主催による大学生との意見交換会、公民館総会に中谷元先生による集団的自衛権についての研修会、古事記勉強会。

集団的自衛権について勉強会が続いているこのごろですが、どうせやるならもう少し早めにやって市町村で関連意見書があちこちでるような事態は避けるようにすればよかったのにと今更ながらに思うわけです。しかし渦中にいるときというものは往々にして自分がどのような環境に置かれているのか捉え難く、周辺のこととなれば尚更感知し難いものです。6月定例会、閣議決定を経てしばらくたった今だからこそ、振り返ってそのように総括できるのかもしれません。

さて、この集団的自衛権行使についての解釈変更(解釈改憲ではない)のお話は、勉強すればするほどその必要性・重要性を痛感せざるを得ないわけです。平和平和と叫んでいれば戦争が起きないわけではなくて、病気にならないように病気のことを勉強して予防措置をとらねばならないように、軍事についての知識をはじめとして戦争についてよくよく勉強し、その上で必要な抑止措置を講じることが必要なわけです。

安全保障の分野において軍事力が最も効果的な抑止力として働くわけですが、さらにそこから通常戦力と核戦力に大別され、そのどちらも不可欠な抑止力の構成要素であります。

核が抑止力として十分な力を発揮することはいちいち説明の必要はないだろうと思います。通常戦力とは、前方展開能力のことであり、戦術的に見れば主として空母を伴う航空攻撃戦力と高い機動力を有する海兵隊戦力のことです。

これらが有効に発揮されるためには、これらの抑止力が有効に発揮されることを相手が合理的に判断できる能力を持っていることが求められます。その意味において内圧や外圧によって国家運営が危機的状況に陥った場合には、抑止力が有効に機能しない場合がある・・・日本近隣には潜在性をもった国がいくつか見当たりますから殊更心配ですね。そしてもうひとつは、その抑止力が有効な打撃力を有し、なおかつ強靭な生き残り性を有していることです。核ミサイル基地の地中化などは生き残り性の強化に当たりますかね。

さて、このような観点で日本の自衛隊が抑止力を有しているのか問われれば、みなさんお分かりの通りノーなのでございます。自衛隊は自衛のための必要最小限度の備えであり他国の基地を攻撃するなど全く想定されていないのであります。ということは、他の何かが日本の抑止力を担っているわけで、それこそ皆さんご存知の通り日米安全保障条約に基づくアメリカによる核の傘と米軍なわけです。

私達は抑止力が一方的に提供されていることからあまりその重要性について意識することはないのですが、しかしよくよく日本の軍備の変遷について振り返ってみると、世界情勢の変化とそれに伴うアメリカ防衛大綱の見直しが行われれば、それ相当の変化が自衛隊軍備もたらされていることが見て取れるわけであります。特に、最近のアメリカの国力の低下やオバマ大統領の「世界の警察やめます」発言などを受けて、日本としても一定、アメリカ由来の抑止力の低下分を補填する必要がでてきているわけであります。

さてそういうことで見直しが行われました集団的自衛権行使についての9条解釈変更ですが、あわせて徴兵制などのお話が出ていますので、それがいかに荒唐無稽なお話であるかについても宇土先生のお話を参考に解説を加えたいと思います。

まずそもそも軍事の分野も日進月歩であって、それなりの技術と知識がないと今日日自衛隊員として役に立たないとのことでした。それはそうですよね、兵器も進化するしIT技術などもいろいろと取り入れられていますから・・・だいたい3,4年訓練しないと使い物にならないそうです。

次に一定の年齢層が徴兵されるとして、その人件費はどのように賄うのかという財源問題があります。いまでさえ予算不足で定足数満たしていないのに・・・

さて、最後に申しておったことは憲法上の制約。憲法18条に「誰も自分の意志に反する苦役に従事することを強要されない」、とあってこれによって徴兵制はダメですよというのがいまの政府解釈だそうです。おおよそ司法判断に持ち込んでも同様の結論を得るでしょう。この条文の由来は、アメリカ合衆国憲法の追加条文だそうです・・・

というわけで徴兵制はありえないのですが、徴兵制ないと言っても国民国家において国家間戦争が起きれば総力戦になるのは当たり前のことなので、否応なく戦火に巻き込まれることは想像に難くありません。そういう最悪の事態が起きないようにということでいま抑止力の議論がされているわけですね。

また次回記事を書く機運に恵まれた際には古事記勉強会で得た雑学についてご披露申し上げたいと思います。