門田隆将さん続き~ネット新時代のジャーナリズムを考える 朝日新聞は何に敗れたのか

ようやく終いをつけようとしております。

結論から先に。

ネットの登場によって、イデオロギーによって歪められた報道ができなくなった。朝日新聞はそのことに気付かない限り、凋落を免れないであろう。

といった内容でした。

 

事件のはじまりは吉田調書。
(福島第一原子力発電所事故当時に、福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎が「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」(政府事故調)の聴取に応じた際の記録の通称 wikiより)

朝日新聞社は、政府が非公開としていた「吉田調書」を独自に入手し、5月20日付1面などで「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じました。ちなみに見出しは「原発所員、命令違反し撤退」です。

門田隆将さんは、「死の淵を見た男」という福島原発事故を題材としたノンフィクション本を出版しています。その記述は、吉田所長はじめ、運転員へのインタビューを脚色なく、また自分の考えを交えることなく記述したもので、非常に資料的価値の高いものとして評価されています。原発事故後に現場で何が起こったかについての第一人者、世界一の専門家といっても差し支えないでしょう。

彼が台湾滞在中の5月20日、日本では朝日新聞によって先述の記事が発表されたのでした。膨大な問い合わせのメールや着信があって、事情を知らな本人は大変驚いたそうです。周りの知らせで経緯を知ると、朝日のオンライン記事にて問題の記事を確認をしました。見出しを見た瞬間に、いつものイデオロギー調で、また大変な誤報だなと思ったそうです。

門田さんによると、日本の報道には真実に基づく報道と、イデオロギーに基づく報道の2タイプがあるそうです。

前者は、取材を積み重ね、ありのままに報道を行い、解釈を受け手側に委ねるものです。後者は、イデオロギーを先行させ、自身の主張を正当化する内容になるよう事実をピックアップして組み立てたものです。
門田隆将さんは、後者の記事を書く記者が自身の正義をゆるぎなく信じているという特徴を捉えて、その症状を自己陶酔型シャッター症候群と命名しました。
たとえば、平和といえば反戦。その主義主張を貫く自分に正義がある。自分カッコイイ!自分の意に沿わない主張をするものは反戦の反対で戦争を推進する輩、平和の敵!右翼!といった風です。

さて話を戻しますが、日本に帰るなり門田さんはブログに朝日新聞の報道は誤報であるとの記事を掲載しました。これを見たネットユーザーから情報が拡散し、大手ブログの紹介サイト?なるところに掲載されると、週刊誌から記事を書いてくれるよう依頼が持ち込まれます。

これを契機として、門田さんは、所長と所員への直接インタビューに照らせば、朝日新聞の件が誤報であることは疑いようがないと、ありとあらゆるメディアに対して説明を行っていきます。その間には、朝日新聞から名誉毀損で訴えるという連絡があったそうです(笑)

そしてある日、某新聞社から吉田調書を手に入れた旨の連絡があります。某新聞社は総力をあげて調書を精査し、朝日新聞の言う「命令違反し撤退」が無いことを確認したのでした。その後吉田調書が各メディアに出回り、それぞれが朝日新聞の報道が誤報であったことを伝えました。朝日新聞が完全に包囲されたような状態に至って、ついに自らの誤りを認め、謝罪を行ったのでした。これが平成26年9月11日のこと。

この後に、朝日新聞井村社長は、社員を激励するために以下のような激励メールを送っていることが明らかとなっています。


 

「長年にわたる朝日新聞ファンや読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から、「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励を頂いております」
「2年前に社長に就任した折から、若い記者が臆することなく問題を報道し続け、読者やASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の報道にひとつの「けじめ」をつけたうえで、反転攻勢に撃って出る体制を整えるべきだと思っていました。
今回の紙面も揺るぎない姿勢で問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えております」
「問題を世界に拡げた諸悪の根源は朝日新聞といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力り断じて屈するわけにはいきません」
「私の決意はみじんもゆらぎません。絶対ぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらがこち国益にかなうかなうアプローチなのか


 

門田隆将氏の言う、自己陶酔型シャッター症候群という言葉がこれほどしっくりくるとは・・・恐るべし。自分たちの正義がいささかも揺るがないと考えている。そして、自分たちの意に沿わない人間は、偏狭なナショナリストで中韓との関係を悪化させ、戦争の惨禍を再び招こうとしている危険なやつらだと、レッテル貼りをしているのです。この話を披露した門田氏は、会場にいた人たちに対して、「朝日新聞の言う『彼ら』とは会場にいらっしゃるみなさんのことを言っているのですよ」と戯け、ドッと会場を沸かせていました(笑)私の知る限りでは、本気で戦争を望んでいる人など周りにいませんがな。

さて、事程左様に、巨大マスメディアの朝日新聞が、一人のジャーナリストに屈してしまったのでした。一昔前ならば、大手メディアが何を書こうがやりたい放題だったのですが、情報発信に双方向性を持つネットの登場によってそれができなくなった。それぞれの分野でスペシャリストと言われる人たちがいて、彼らがメディアの過ちをネット上で指摘をすれば、時にそれは大きな流れを起こし、巨人を引き倒してしまうことも可能となったのでした。もしこのことに気付かず、あるいは見て見ぬふりをして、従前どおりイデオロギーに基づく記事を書き続けた場合、その媒体の末路は目も当てられないものとなるでしょう。真実、その特攻 の話と通底するところがありますね。

以下は余談です。

ある日、門田氏のもとに吉田所長が訪ねて来たそうです。吉田所長が言うのには、彼の福島原発について書いた本を読んだ人たちから、門田氏を訪ねるように幾度と無く言われたから、会いに来たとのことでした。その後、病床の吉田所長は、息子に対して門田氏の本を読むように言付けました。「これが現場の真実の声だ」と。

さらに、門田隆将氏は、福島4号機の副所長から聞いた印象深いエピソードについても語ってくれました。この副所長も名を同じく吉田と言うそうです。事故直後ベント開放に行く奴はいないかと吉田所長が聞きました。全電源を喪失した環境下、当然原子炉建屋は真っ暗闇、足場も悪く、また大量の放射線が生じています。死を覚悟した上での作業です。その時に「はい」と手を挙げたのが四号機の吉田副所長その人でした。インタビューの中でなぜ志願をしたのかを尋ねたそうです。吉田副所長が言うのには、「自分は10年前に東京電力に技術者として入社した。自分が最初に担当した炉が1号機であった。つまり自分という技術者の育ての親が1号機であったのであり、そのことに心から感謝をしている。そして、もう1つ。原子炉にもそれぞれ性格がある。優しいやつもいれば、気性の荒いやつもいて、それぞれ違うのだ。1号機はじゃじゃ馬だけれども、本当は心根の優しいやつなんだ。その優しく、育ての親でもある1号機が原因で、日本をダメにしてしまうかもしれない状況にいてもたってもいられなかった。だから私はそれを止めるために志願をしたのだ。」

 

福島原発だけでなく特攻もしかり、各々の時代に、家族のため、祖国のために命を賭した人がいて、お陰様で今日の私達があるわけです。その積み重ねが伝統や文化を織り成し、さらには精神や血肉となって日本人を形づくる。今日においても、先人同様に自身の命を賭して、世のため人のために次代のために尽くす人がいることに何の不思議があろうか。

門田隆将さんの講演

先週末の25日、今週日曜日の26日、門田隆将さんの講演を聞きに行っておりました。
素晴らしい内容でしたので、その概略について紹介したいと思います。

25日@高知城ホール
「特攻、その真実」

わかる人にはわかる会場です。主催は高知大学の先生、教育学部 加藤誠之准教授です。

まず主催者挨拶として加藤先生からお話がありました。

・永遠の0が大ヒットした
・高知大学の学生たちにも大ウケ
・特攻隊の姿に感動した、お陰様で今があるとの感想
・この生徒たちの反応に危機感を抱く
・戦争の記憶が風化し
・戦争を美化する傾向にあるのではないか
・本講演を通して、特攻、その真実について触れ、多様な角度から検証することにより
・この流れに歯止めをかけたい

といった趣旨だったと思います。(この導入に怒った人が何人か帰ったようです)

そのお話の後に、満を持して門田隆将さんの講演。
ジャーナリスト門田さんが良い取材をするためにまず心がけることは、取材時には対象者のお話くださっている時間と空間に身を投じることだそうです。
今回のお話をするにあたっても、特攻隊員の生き残り、あるいは関係施設で働いていた方に直接インタビューを行いました。その際には今日の価値観を捨て去って、当時の人が何を見て聞いて感じたか、これをできるだけ忠実に追体験・再現できるよう心がけます。

さて、本題の特攻のお話ですが、

平成26年10月25日は、フィリピン、マバラカット基地から敷島隊による最初の神風特別攻撃が行われてからちょうど70周忌にあたる日。

まず特攻の前段として理解しておかなくてはいけない当時の背景は、日本軍の劣勢はもとより航空機パイロットの練度が極端に低下をしていたこと。マリアナ沖海戦、フロリダ沖海戦などでたくさんの熟練パイロットが失われていたこと。レイテ沖海戦では、海上で戦うことを前提に訓練をされていない陸軍の航空パイロットが投入されたほどの人材不足であった。天文航法によって水平や位置を把握する海軍に対して、陸軍は地文航法を採用していたため、海上で天地や方位の感覚を失ってしまい、敵機に七面鳥撃ちと呼ばれたように容易に撃墜されてしまったり、洋上に墜落することがあったということなど。

こういった背景のもと、空母への最も有効な打撃を与える方法はこれしかないということで、神風特別攻撃隊が編成されることになった。マバラカット基地で編隊を命ぜられた玉井浅一中佐のもと、甲飛10期生33名に対し、「25 番(250 ㌔爆弾)を零戦にハンダ付けして、貴様たち突っ込んでくれ」と志願が募られる。(ハンダ付けとは暗喩であって本当にハンダ付けをしたわけではない。)門田さんのインタビューによると、実際には候補者は40名程度いたとされ、その誰もが特攻の希望者を募った際には押し黙ったそうだ。その後しばらくの間を置いて、半ば雰囲気に圧された形で志願者の手があがると、上官から間髪入れずによしわかった、よろしく頼むという旨の締めの言葉があったとのこと。

神風特別攻撃隊の出だしは順調ではなく、最初の2度の出撃は空振りに終わっている。敵艦発見の報がもたらされても、特攻隊が現地に到着する数時間後には敵艦隊を見失ってしまっていたのである。軍上層部の中に特攻隊に対する冷ややかな声があがりはじめた頃、三度目の出撃にて関大尉率いる敷島隊による初の特攻がなされた。(最初の特攻が関大尉率いる敷島隊かどうかには異論もあるようです)

この第一次特攻隊には高知出身者が3名含まれており、その中の宮川正さんには豪快な逸話が遺されています。宮川さんは、周囲の張り詰めた空気の中にもかかわらず、自分は無駄死をしたくないのでどのような飛行方法が最も特攻の成功確率が高いか、みなさんの意見を聞かせていただきたいと周囲に相談したという。

戦後教育の中で、世間一般には、特攻とは天皇陛下万歳といった掛け声のもとに、悠久の大義のために、国家のために特攻がなされたと理解されているようですが、必ずしもそうではないと。関大尉におかれては、特別攻撃隊の編成の決まった20日の晩の記者取材に対して、「俺みたいな優秀なパイロットを殺してしまうなんて、もう日本はだめなんだ。もう日本はお終いだよ」そして「俺は天皇のためとか、国のために行くんじゃない。もし日本が負けたら妻が米兵に暴行されるかもしれない。だから俺は彼女を守るために行くんだ。どうだ、素晴らしいだろう。」と返答している。

さまざまな事情によって生き残られた特攻隊員に対して取材を行った際には、関大尉同様に、家族のためにいったのだという話が大勢を占めたそうです。

それともうひとつ。当時の特別攻撃隊は十代後半から20代前半の学徒出陣によって徴兵された人々が多く参加していました。旧帝大等に在籍していた彼らは、今よりもはるかに厳しい受験戦争をくぐり抜けた、同世代上位0.4%のエリートによって構成されています。親の溺愛も今以上であり、入隊式には家族が大挙して押し寄せるということで、巷の混乱を避けるために陸軍と海軍の入隊式の日を数日ずらしたほどです。さらには、艦船に配備された息子可愛さに、上陸の自由時間を少しでも長く一緒にすごすべく、海軍基地周辺に母親などが下宿をしていたこともあったそうな。そのような環境下にあった学徒たちがどのような気持ちでこの戦争、特攻に臨んだのかということには、門田さんも大変興味を惹かれインタビューを行います。

まず、彼らの多くは反戦であった。頭脳明晰な彼らからすれば戦争などするべきではないとの結論に至るのは当然のこと。それでもなぜ戦地に赴いたのかと聞くと、この戦争に負けたならば、白人がこれまでアジアやってきた過酷な植民地支配が日本にも及ぶからだと答えた。有色人種を動物としか考えていない白人から、家族を守るためには戦うしかなかった。年老いた両親を、まして自分より幼い弟、妹達を戦場におくることはありえず、自分がいくしかないのだと。そして、中でも最も頭脳明晰で操縦技術の巧みな人間から死地に赴いくことになる。特攻の生き証人はその方々に対して本当に申し訳ないと涙を流しながら語ったそうだ。

もうひとつ。元山航空隊 第一 七生隊の宮武信夫大尉(隊長)と日系二世の松藤大治少尉のお話。松藤少尉は日系二世として生まれ、小学校までアメリカにて過ごす。二重国籍であり、徴兵を断ることができるにもかかわらず(日系で断った人はいる)、彼はこれを受け入れた。

朝鮮の元山航空隊に配属されたのちは、持ち前の運動神経と頭の良さでメキメキと操縦の腕をあげ、宮武信夫大尉と並ぶまでになる。宮武大尉に寵愛された彼は、大尉が「俺は特攻に行く。お前たちもついて来い」と言うと、すかさずこれに応じたそうな。彼だけでなく、生徒たちは特攻という思想には賛同できないものの、大尉にはついていきたいと答えた。

「日本は戦争に負ける。でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」
松藤少尉が福岡の親戚に残した言葉。

特攻の前夜、人々が落ち着かないままでいると、身長183センチの松藤が大きなヤカンを2つ提げてやってきた。中にはお酒が入っており、人々は最後の盃を交わしたのだった。眠れるものもいれば、そうでないものもいた。彼なりの気遣いであった。

出撃の朝、整備兵が資材の木をプロペラにぶつけてしまい、片岡機が飛べなくなるアクシデントに見舞われる。片岡氏を残して、七生隊はつぎつぎに空に飛び立つ。そらをおおわんばかりの特攻機の姿を見て、片岡氏は実に立派、実にあっぱれと感じ、勝てるはずのない戦争にひょっとして勝てるのではないかとの錯覚をおぼえたそうだ。

4月6日、七生隊は沖縄の海にて、米軍艦隊34隻に損害を与えた。

話は遡るが、宮武信夫大尉は、出発前に自由行動を許された際に実家に足を向けたことがあった。家族からどうしてもと一筆(いわゆる絶筆)を依頼されると、彼の書いた文字は「断」の一文字であったという。将来の夢、家族や友人、さまざまな物を断っていくという壮絶な決意が伝わってくる。

特攻ののちに、宮武信夫大尉の遺品が遺族に返されることがあった。遺品の中に一つだけ足りないものがあることに気付いたそうだが、それは以前渡してあった母親の写真とのこと。彼は母親の写真とともに沖縄の海に向かい、特攻し、その命を散らしたのであった。その母親からは、門田隆将氏が太平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦特攻編を出版した際に電話があった。作中に息子、宮武信夫の名前があることを人づてに知った母は、居ても立ってもいられず、門田氏に電話をし、「お陰様で息子の最後を知ることができました」とお礼を伝えたのであった。

時代は流れ、平成5年のこと。
元山航空基地で松藤少尉と日々を過ごした大之木氏という方(ちなみに門田氏は彼を通じて松藤少尉を知る)。彼は、松藤少尉の母、ヨシノさんがロスアンゼルスでご存命であること知ると、渡米を決意。彼は、昭和20年4月3日の最後の晩の松藤少尉の姿を、ヨシノさんに伝えに行ったのでした。

大之木氏の話を黙って聞いていたヨシノさんは、彼の話が終わると、
「男というものは、そういうもんです。国の大事には男はキパッとやらにゃ。大治は立派なことをして死んだんです。そうじゃないですか?大之木さん」車椅子に腰かけたまま、そう問いかけました。大之木氏はその瞬間、「ハイッ」と言って立ちあがって頭を下げたそうです。

大之木氏は言う、
「私たちは、たまたま1945年のあの時に軍人であり、若者でした。私は、戦友たちの死を無意味だったとか、可哀相だったとか、そういうことは言って欲しくないんです。ただ、ご苦労さん、よくやったとだけ、言ってやって欲しいです。」

 

以上、門田隆将氏講演「特攻、その真実」のおおまかなまとめです。少し調べて加筆してあったり、語尾が不統一であったりします。また何分、私の文章力が未熟なもので、伝えるべきことを伝えきれていないかもしれませんがご容赦ください。門田隆将氏が本当に言いたかったことは、翌日26日の講演の内容とあわせたときに、その輪郭がよりくっきりとします。また余力あるときに書きたいと思います。

長文失礼しました。

明日は建国記念日

明日は建国記念日です。高知会館にて門田隆将先生の記念講演がございますので、ふるってご参加くださいませ。実は先程まで門田先生を囲む会に参加していたのですが、お話が上手な上に大変勉強になりましたので皆様にお知らせ申し上げます。日本の未来を考える上で常に良い刺激になると思います。

建国記念日をお祝いする高知県民の会
日時 平成25年2月11日 13:30-
場所 高知会館

http://www.kadotaryusho.com/