平成30年度北街・南街防災実行委員会

平成30年度北街・南街防災実行委員会総会及び講演会が開催されました。

講演の部では、講師として千葉県より村山和彦先生がお越しくださいました。

被災後の復興をいかに迅速にすすめるか、そのために事前復興がいかに重要かについてお話くださいました。

特に下水を念頭に置いた排水計画の話は、喫緊の課題と感じました。

理容組合運動会

今日は高知市大原町のよさこいドームにて開催された理容組合高知支部大運動会に参加しました。

このシーズン、現職は委員会視察等で朝イチに挨拶する時間しか取れません。しかし現在の私の身の上は、比較的自由に予定を立てられる身なので、お昼までフルで運動会を楽しみました。

参加すると不思議なもので、日頃の煩わしいことをすっかり忘れてしまい、心底楽しく走り回ってしまいます。

企画・運営くださった理容組合の役員の皆様、誠にありがとうございました。

廣井勇を顕彰する会

5月14日は、土佐の佐川町が生んだ近代土木の先駆者、『廣井勇(いさみ)を顕彰する会』および設立記念シンポジウムに出席しました。

シンポジウムの講師として招かれた古川勝三氏からは、教育者ということもあって、お話が大変上手で胸の熱くなる素晴らしいお話を拝聴することができました。

廣井勇は、1862年9月2日、佐川村内原の没落武士の長男として生まれました。明治維新によって武士の時代が終わりを告げると、極貧生活を余儀なくされます。彼が10歳の時、家を訪ねてきた叔父に、東京で勉強させて欲しいと懇願します。彼の固い決意と熱意に動かされた叔父と家族は上京を認めました。この時、姉が別れ際に「お前も侍の子です。『もし学ならずんば、死すとも帰らず』の気概を持ちなさい」と言ったそうです。

叔父の片岡家で玄関番を命じられた勇は、その仕事の傍、必死に勉強を重ねました。12歳で最難関の東京外国語大学の英語科に入学を果たしましたが、その後に工部大学校予科に転学。しかし、授業料が有償となることを受けて、無償で勉学に励むことのできる札幌農学校に転校します。片岡家に負担をかけたくないとの思いからとのこと。

札幌農学校といえば、少年よ大志を抱け で有名なクラーク博士ですが、古川氏によると、クラーク博士は半年の在任期間で大したことはしていないが、ひとつだけ功績があって、それは、教頭にウィリアム・ホィーラーを置いたことだそうです。勇はキリスト教の洗礼を受けますが、農学校の同期の中にはキリスト教思想家で有名な内村鑑三がいました。彼をして、『一時は、私が今日おるべき地位(伝道師)に君が立つのではあるまいか』と言わしめるほどキリスト教に熱心で、その契機を与えたのはホィーラーでした。廣井は伝道師ではなく、土木工学を通して、当時貧しかった日本を富ますこと、『世俗の事業に従事しながらいかに天国のために働くか』と考えていたのであり、キリスト教が彼の人格形成、またその後の人生に与えた影響は計り知れないものがありました。

19歳に農学校を卒業後、北海道開拓使に勤務、一年で開拓使が廃止となると、東京生活を余儀なくされます。アメリカに渡航し、土木工学を極めたいとの思いが募り、渡航費用捻出のために極貧生活に突入します。無駄な買い物や付き合い酒を控え、周囲は彼を守銭奴と呼んだほどとのこと。勇は、先輩方を差し置いて国費で渡航したいと言えなかったようです。

2年後の1883年に、念願のアメリカ4年、ドイツ2年の海外渡航に出発しました。留学先のアメリカでは、滞在費用を稼ぐために土木の現場に入ります。そこで働く傍、彼により英語で執筆された『プレート・ガーター建設法』は、出版されると当時アメリカ建設技術者の必携本とされるまで人気を集めました。

帰国後の1889年、母校の札幌農学校教授として迎えられます。この時彼は27歳でした。教鞭を振るうかたわら、彼は北海道庁の技師を兼任し、彼の設計・指導の下、小樽港の整備に携わります。北国の海はとても荒々しく、非常な難工事となったそうです。度重なる暴風雨により、コンクリートブロックはたびたび飛ばされ、その上日露戦争の煽りを受けて工事予算は縮減されます。しかし、廣井勇はこれらの障害を乗り越えて、築港から100年経った今でも機能する堤防を築きました。

常に第一線に立つ廣井勇の人物をよく物語エピソードがあります。小樽が大きな嵐に襲われた際、巨費を投じたクレーンが大波によってさらわれることのないよう、廣井勇は荒波を前に夜を徹して祈ったそうです。翌朝駆けつけた作業員たちが目にしたものは、凍りついたカッパを着て祈り続ける廣井の姿でした。万が一のことが起こった時には、彼は責任をとって堤防とともに死する覚悟でした。

また、廣井は「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と一切の心付けを受け取りませんでした。大学での自身の特許や発明についても、リベートを一切とりませんでした。

ことほど左様に、彼の事業の功績は数多ありますが、最も讃えられるべき功績は、優れた門弟を世に送り出したことです。東京帝大の講義では、遅刻者が出ると怒りで顔を真っ赤にして指導を行い、講義にならなかったとのこと。彼の情熱にほだされた生徒の中には、台湾の烏山頭ダム建設に一身を捧げた八田與一、小樽堤防を完成させた伊藤長一郎、パナマ運河構築に参画した青山士、鴨緑江に水豊ダムを建設した久保田豊らがおり、その人脈を廣井山脈と呼んだそうです。

1928年10月1日、廣井は67年の生涯に幕を下ろしました。内村鑑三は、葬儀の弔辞で「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、廣井君の事業やりも廣井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました。」と述べました。

高知の佐川に、明治の日本、土木の近代化の中核をお支えくださった先人がいらっしゃったことを知りませんでした。不明であったことを恥ずかしく思うとともに廣井勇氏の偉業に触れられたこと、その機会を下さった本会に心より感謝申し上げます。

当面は、氏の功績を讃えて銅像もしくは胸像を佐川町に建立するべく、本会は活動するとのことですが、その次のステージとして、彼をはじめとして土木工学の発展に尽力した人々の偉業に触れることを通じて、人材育成にも力を注ぐとのことです。偉人の顕彰を通した人材育成は、自身の政治家としてのライフワークでもあります。微力ではありますがお手伝いできれば幸甚と考えております。

廣井勇を顕彰する会HP

https://www.hiroi-isami.com

学生さんの発表

平成30年度 仁淀川・物部川総合水防演習

昨日の13日は、物部川河川敷で開催された総合水防演習を見学に行ってきました。

沢山の関係者を前に、水害発生を想定した訓練が迅速かつ正確に行われていました。不測の事態の連続である災害発生時にこそ、冷静沈着な判断と迅速な行動が不可欠であり、それを可能とするものは日頃の積み重ねに他なりません。激しい雨で肌寒く、まるでその日がやってきたかのような環境の中、懸命に演習に取り組む関係各位に、感謝と敬意の念を深く致しました。ありがとうございます。演習以外にも、水防・防災に関わる関係者のブースが設置されていました。自衛隊の車輌展示、建設業協会の河川のエリア別企業担当マップ、NTTドコモの災害時の取組み、警察のボートなどなど。写真は警察のボートです。正式名称は確認しておりません。なぜスクリューや水噴射を推進力にしていないかというと、河川や海の中に漂流物等があっても、推進できるようにするためとのことでした。エンジンを剥き出しのまま搭載している姿は圧巻です。エンジンの重みで重心がやや後方にあることから、船体の起き上がりを抑えるために船底の前方が後方に比べて厚さを抑えているそうです。この写真は、地方整備局が用意した降雨車です。激しい雨の中の、改めて雨合羽を着込んで、わざわざ降雨車の雨に打たれに入る様は一見シュールさを感じさせます。しかし侮るなかれ、きっと本車の再現する激雨は、当日会場を覆っていたものとは比較にならないのでしょう。もう一つ、私が楽しんだブースがありましたが、写真を撮り忘れてしまいました。ロープの結び方についてレクチャーくださるブースです。土佐(トラック)結びや、もやい結びなど勉強してみたかったことが学べて大変充実したひと時でした。帰り際には案の定、結び方を忘れかけていましたが、会場配布品の中に練習用ロープと結び方の本がありましたので、将来にわたって安心です笑。おまけ

はりまや橋小学校区防災連合会総会

昨日は、はりまや橋 小学校区 防災連合会 総会に出席しました。 以前 北街 防災会に顧問として在席しておりましたが、 新たな小学校区の改変に伴ってはりまや橋小学校区 防災連合会に吸収されたので、引き続き 本連合会の顧問をお引き受けさせて頂いておりました。一身上の都合にて二年ぶりの出席ということで、関係者にはご無沙汰をお詫び申し上げました。

総会の報告では、1年間の間に防災力向上のために実施された様々な取り組みについて報告がありました。

一月と空けることなく、役員会やイベントが開催されております。参加者各位の 献身的な 努力の賜物と頭の下がる思いがいたしました。

防災減災及び復興活動は、その取組み主体によって自助・共助・公助に大別されます。また、時間軸も地震発災前から、発災初期、中期、長期といったスパンで取り組むべき内容が変化しますし、大別されます。

共助の取り組みである本防災会の守備範囲は、避難計画や他の避難所との連携、避難所の運営、地域の企業との連携など多岐に及びます。

揺れからいかに多くの命を救うか、そのポイントは家具の転倒防止や自宅の耐震化など自助に負うところがほぼすべてです。しかし、新聞報道等でご存知の通り、県内の耐震対策は頭打ちとなっており、約72,000棟が旧耐震のままとなっています。

本防災連合会の定める共助の範囲をはっきりと把握するものではないですが、防災減災の要諦である自助の取り組みを一層催すために、共助の主催団体がその後押しを相当積極的に実施する必要があると考えます。

とある住宅供給先メーカーから聞いた話ですが、先般の熊本地震では、耐震基準を満たした耐震等級1はもちろん、耐震等級2の建物においても多数の倒壊が確認されたそうです。その対策についても耐震等級3を採用することで対策することが可能との知見が得られています。耐震等級3を推進する是非はまた別としてこういった情報を自助で得ることは至難です。専門家を招いて意見交換や勉強会などを持ち情報の蓄積が必要ですが、そういった機会の受け皿としては、地域の人々が携わる共助の場が最も適当と考えます。

これは関連するお話ですか、仮設住宅の展開を考えたときに、耐震等級別の住宅の把握が重要となってくると考えられます。仮設住宅の必要数の見積もりと設置速度はその後の復興に大きく影響をしますので、どの段階で避難元の住宅の安全性の確認を行うか、高い確率で震災後の利用が可能であろう耐震等級3の住宅がどれだけ存在するかの戸数の把握は必要ではないか?そういった議論も今後必要ではないかと考えております。

憲法改正を推進する県民の集い

本日は講師に、八木秀次先生をお招きして憲法改正を推進する県民の集いが開催された。

八木先生は、政府の取り組んでいる道徳の教科化や民法の相続の改正に大きく係るとともに、保守の論壇として過去に数々の書籍を出版されている。私も先生の著書をいくつか拝読させていただいており、政治の道に進む決心をする上で少なくない影響を受けています。

日本国憲法の施行された1947年の5月3日、この日にはあまり意味がなくて、GHQは交付された1946年11月3日に意味を持たせたという。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、この日は文化の日でありかつての明治天皇の誕生日である。(なお、巣鴨プリズンのA級戦犯が処刑された日は、12月23日の今上陛下の誕生日であり、ここにかれら(主にアメリカ)のメンタルをうかがい知ることができる。)

主権も自由意志もない占領下で作られた日本国憲法にふさわしいサイドストーリーである。

占領政策の主な目的は2つありました。軍事的武装解除と精神的武装解除である。これは降伏後におけるアメリカの初期対日方針の中で確認することができる。

この延長線上で作られた日本国憲法によって、今日の日本がいかなる課題に直面しているのか、私のブログを訪問する人はその道に詳しい方が多いと思いますので詳細には語りません。

八木秀次先生の考える憲法改正の本丸は、9条とのこと。

政府は加憲を言っている。憲法学者が自衛隊を違憲と言っている現状を変えるとのたてりだが、これでは弱いとのこと。

憲法には自衛隊の位置付けが書かれていない。現在の自衛隊の法的根拠はなにか?行政組織法で定められているが、これは法律である。国会議員の半数の賛成があればいつでも廃止できることを意味する。ということで憲法の中に自衛隊の位置付けを明記すべきで、それは3項をシンプルに置くことによって可能であるとのことでした。

しかし残念ながら、この八木秀次先生の着眼点はさして目新しいものとは感じなかった。自民党本部の憲法改正推進本部でもたびたび議論されている。さらに踏み込んで、とある先生からは憲法第73条の内閣の権能の中に「自衛隊を置く」と書けば良いとの意見もありました。

たとえ自衛隊を明記したとしても、自衛の範囲や戦力の程度に関する議論は相変わらず繰り返されます。行政組織の中に位置づけられ、警察法の延長線上、平時の法律でグレー事態の対処にあたらなければならないケースが生じます。

日本の主権を侵害し平和を脅かそうとするものが、その弱みに付け込まないわけがないと考えます。

月次祭

久しぶりに土佐神社の月次祭に出席しました。

ご存知ない方のために少し解説しますと、月次祭とは国や県の安寧と平和、皇室の弥栄を祈るお祭りで、土佐神社では毎月1日の10時から開催されています。

どなたでも手ぶらで参加できますので気になる方はどうぞお気軽にお越しください。

約2年ぶりにの出席ですが、出席者がとても増えていたことに驚きました。県下各地から40名ほど、外国の方が4名ほどいらっしゃいました。今日はまだ少ない方らしく、普段の月は70名を超えるそうです。

祭典が終わると、玉串の余りが配布されますが、参列者が我先にと受け取りに足を運びます。たしかに、自宅の社殿に供する榊としてこれに勝るものは無いですね。