今そこにある危機

北朝鮮の暴走によって、日本は危機的状況に追い込まれつつある。

日本のおかれている状況について比較的詳しく記事を書いているのは産経新聞だと思う。熱心な読者にはおさらいになるが、北朝鮮の暴走によって浮き彫りになった日本の問題について書く。

まず、アメリカと半島国家の間で起ころうとしている戦争に、我が国が巻き込まれようとしていると、多くの日本人が考えている点を挙げたい。
いやそうではなく、我々は当事者国なのだ。17日の産経朝刊だったか、日清戦争にいたる経緯について簡潔にまとめられていた。当時の日本の為政者は、地政学的観点から朝鮮半島を日本の利益線の内側に位置付けていたが、それは朝鮮半島が不安定化すれば日本海を挟んで隣接する日本の安全は揺らいでしまうから何とかしなければならないと考えたからである。安定化のための介入の結果起きたのが日清戦争であり、日露戦争である。
いまの北朝鮮の問題と何が変わろうか。核搭載ICBMの開発に成功すれば、極東におけるアメリカの軍事力プレゼンスは低下する。北朝鮮は、軍事力を背景にその時日本に何を要求するのだろうか、想像するのも恐ろしい。
朝鮮半島有事は、我が国の有事でもある。

北朝鮮の様々な攻撃に対処できない。
潜入工作員が重要インフラにテロをしかけてきたらどうなるだろうか。原子力発電所には、武器をもった警備員が配置されていない。あるいは通勤時間帯の地下鉄に毒物を持ち込まれたらどうなるだろうか?必要な法整備がすすめられず、諜報機関を軽視してきたツケがめぐってきた。人の多い東京ならどこでも、工作員は効果的なアクションが可能である。
北朝鮮が力の象徴とする弾道ミサイルなどは対処できないものの最たるものである。正確を期していえば撃ち落とせないわけではない。しかし日本を射程におさめたニ百発を超えるミサイルによって飽和攻撃が行われた場合、日米が協力してその迎撃にあたったとしても、そのすべてを撃ち落とせるわけではない。
日本のイージス艦一隻が一度に追いかけて迎撃のできる弾道ミサイルは1発である。アメリカはアップデートされたイージスシステムを搭載しているので、一隻あたり10程度の目標を同時攻撃できるが、飽和攻撃に投入されたミサイルのすべてを撃ち落とせるわけではない。
日本国本土の主要都市・基地周辺には、大気圏内の日本上空で弾道ミサイルを撃墜することのできるPAC‐3が配備されている。しかしこれとて万能ではない。上空で弾道ミサイルを撃ち落とせば、破片や毒ガス兵器などの内容物が主要都市に降り注いでくるのである。もし核弾頭がその中にあって上空で爆発すれば、EMP(電磁パルス)を生じ、航空機が制御不能に陥るのみならず、インフラをはじめ重要施設の電子機器が破壊されてしまうだろう。万が一核弾頭が山手線内に着弾すれば、少なくとも山手線内は灰燼に帰す可能性が高い。

難民の問題もある。戦争がはじまれば、在留邦人の引き上げはもちろんのこと、日本に避難してくる朝鮮人も存在するだろう。その数は数十万あるいは数百万人にも上るかもしれない。果たしてこれだけの人間を引き受けられるだろうか。

しかも北朝鮮の問題は先送りすればするほど、日本を含む関係国の被害と事後処理が大変になる。

果たして、北朝鮮に平和裏に核兵器を放棄させることができるであろうか。私は極めて難しいと考える。北朝鮮は(中国もだが)力こそが、自分たちの行いを正当化させ、生存権を確保せしめ、相手を従えさせることのできる唯一の手段であると確信している。ゆえに、彼らはその力を手に入れるために必要なありとあらゆる犠牲を許容するであろう。
もし今回、アメリカが軍を引くことがあっても、朝鮮半島有事は遅かれ早かれの既定路線なのである。

(大きすぎる授業料を払うかもしれないことによって)我々が学ばねばならないことは、平和のために真面目に軍事を学びそのバランスをとる努力をしなければならない現実についてである。政治家はもちろんのこと、国民も義務教育をはじめ様々な段階で軍事の基本について学ぶ必要があったのだがそれをしてこなかった。アメリカに軍事を依存してきたことと不勉強の代償であるが、国政の場で日本の安全を確保するために必要な戦略・戦術について語れる政治家は少ない。また当然国民も関心を示さない。だから必要十分な防衛措置が講じられないまま、北朝鮮に対しても核開発を途中で挫折させるような、かつてイスラエルがイランに行った妨害工作のような対処を講じることができなかった(中には防衛的先制攻撃とは認められないものもあったが)。

われわれに降りかかる火の粉はこれだけではない。数年内には西南諸島でも何かしらの動きがあるといわれている。この先ひとりでも多くの国民の生命を守るために、今回の騒動を契機として、平和のための軍事について真剣に語る機会・学ぶ機会を増やさねばらなないと考える。



新年あけましておめでとうございますブログ記事

新年あけましておめでとうございます。恒例の筆不精をご容赦ください。

昨年は参議院選挙等のお手伝い等ありまして、個人的に大変慌ただしい一年となりました。現在はそのご縁で、中西さとし事務所にて秘書としてお手伝いをさせていただくとともに、政治の勉強を重ねております。

非常に急なことでしたので、直接お会いしてご挨拶できずじまいでご無礼をお詫びしなければならない方も多々いらっしゃいます。機会を作りお伺い申し上げますとともに、ご期待に応えられるようしっかりと政治に、世のため人のためにと励んでまいりますので、引き続きご指導・ご鞭撻いただければ幸甚です。

 

さて、昨年は本当にいろいろな出来事があって、多くのことを考えさせられる一年でありました。その時々の出来事から感想やアイデアを得てはいるのですが、ろくにメモもしないもので、いま思い出せと言われてもなかなかまとまらないものです。

やはり鮮度が一番ということで、できるかぎり記事にしてアップロードしていくよう努めたいと思います。

 

せっかくですので今年の動向が気になるものを3つあげたいと思います。
ひとつは、天皇陛下の譲位に関すること。もうひとつは憲法改正、最後にローカリゼーションの台頭です。

最初の問題は日本と日本人の根幹にかかわることです。皇室あっての日本です。どのようにしてその彌栄をお支えしていくかということについて、保守の論客もまとまった回答を得ていないようです。以前に関係する記事を書いたように記憶をしています。その時点での自分の気持ちを書いたつもりではありますが、それが確信を持った回答かと問われれば否と言わざるをえません。

憲法改正は、今年中に行って欲しいと強く思っています。勝負は一点突破でやってもらいたい。あれやこれや改正点を盛り込むと絶対にダメです。日本の存立にかかわる根幹的なテーマで改正を議論すべきです。つまり前文の修正、それから憲法9条第二項の修正または第三項の加憲。そして前文では日本の国のかたちをちゃんと記す。9条では自衛のための軍事力を有することと、その実行部隊である自衛隊の軍隊としての立場を明記すること。国家存亡にかかわるこれらのテーマに絞って、命がけで取り組めば改正は絶対に成ると考えています。本気の政治家、本気の政治が必要です。

最後は移民問題やテロ、イギリスのEU離脱、トランプ当選からよく言われるナショナリズムの高まりあるいは排外主義高まり。画面の向こうの評論家然としたよくそういう表現を使うから真似ました。私に言わせてみれば、それらのリアクション群はグローバリゼーションという名の、経済(侵略)戦争、あるいはある国ある文化からの他国他文化への過干渉、強制的な普遍化に対して、個であろうとする意思の発露であり自然な免疫反応にすぎません。闇雲に押し付けたり飲み込もうとするのではなく、相手の立場を理解し認めるという当たり前のことを欠いているのだと考えます。経済ガー、貿易ガー、グローバルスタンダードガーとかいろいろ言って一様化しようとしますが、国だって人と同じで絵の上手い人もいればかけっこが得意な人、そのパーソナルスキルは様々なのです。得手不得手は認めてあげて、それぞれが活躍できる場に置くべきです。生物の生存にその多様性が欠かせないといえば誰でも素直に理解できるのですから、同じ着眼点で人間社会の持続と発展にも言語や文化、それらの成果物である社会の多様性が重要であると理解できそうなものですがね。この問題の解決には、多様性について寛容かつ結びの文化を持つ日本が大きく貢献できる余地があると考えます。

 

 

おまけ、最近読んでとてもおもしろかった本『総理』を紹介します。
山口記者の渾身の一冊といった感がします。

政治の最前線にいる政治家が、どのような苦悩を抱え、決断し、また挫折するのかについて、あたかも眼前の出来事のように感じつつ知ることができます。安倍総理のヨイショ本だという批判もありますが、私は決してそのようには感じませんでした。政治を毛嫌いしている方、あきらめを抱きつつある方にこそ手にとってもらいたいですね。もちろん政治好きにも大推薦しますが(笑)産経の阿比留記者からも同様のタイトルの本が出ていますが、私の軍配は山口記者に上がります。書き方のアプローチが違うからこういう比較はフェアじゃないのかもしれませんが。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

靖国神社秋季例大祭

昨晩は激しい雨が降りました。どうなることやらと心配もいたしましたか、なるべくしてとでも言うべきでしょうか、今朝方にはすっかり青空がのぞくのでした。

靖国神社秋季例大祭に参りました。祖国の礎となられました御英霊に対しまして衷心より哀悼の誠を捧げました。

京都研修会

すっかりご無沙汰をしております。

この連休、お休み返上で研修会に出席中です。

水と木、そして神々が織り成す日本文化のおはなしです

[日本国憲法]共和党トランプ大統領候補の副産物

過激かつ排他的な発言で世を賑わせているトランプ候補。
彼のような政治家が台頭してきたことでグローバリゼーションからローカリゼーションへの揺り戻しが起きていることをつぶさに実感するのである。不可避の流れか・・・

さて、対日政策に関してもいろいろと急進的なコメントを残してきたトランプ候補であるが、その数ある一つが面白い副産物(高官発言)をもたらした。

バイデン副大統領「私たちが日本国憲法を書いた。日本は核保有国になり得ない」 (産経ニュース)

日本国憲法原案について既知のことがらではあります。しかしアメリカの現職から言われると腹立たしくもあり、今日もそれを大事にいただいている自分達日本人を情けなくも感じますね。

8月15日護国神社

​8月15日国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊に、尊崇の念をもって慎んで哀悼の誠をささげました。みなさんもお時間ご都合つきましたら、春季大祭、秋季大祭、夏の献水の儀にお越しくださいませ。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば

激動の今ではありますが、今日(8月8日)は日本にとってことさら大きな出来事がございました。上記リンクの通り、天皇陛下が象徴としてのお務めについてその思いを語られました。

メッセージからは、ただひたすらに国民の安寧を願い、伝統の継承者としての責務を果たされようとする真摯なお姿が伝わって参りました。また、お年を召されたこともあり、あるべき姿を今後も維持し続けることができるかということに不安を覚えていらっしゃるとのことでした。

本当にもったいないお言葉でございました。涙がこぼれます。

皇室のあり方について定めた皇室典範は、今日では憲法下に置かれているため、大変恐れ多いことではありますが、必要に際しては民選の国会議員がその改正にあたることになります。実際には有識者会議の方針にのっとった結論が出るとはいえ、お世継ぎ問題の際の対応などを見ていると不安を覚えずにはいられません・・・

皇室の家法ともいうべき皇室典範が憲法下に置かれたのは、明治以降と理解しております。近代国家の要請に従って止むを得ずそのような形態をとったのであって、ある時代の特異な、あるいは一過性のレジームにいつまでもお付き合いする必要はないと考えます。憲法なるものができるよりもはるか以前より存在し続け、あらゆる時代において普遍的価値を持ち続けた「伝統」こそが真理であります。つまり私としては、いわゆる皇室典範なるものは憲法下から離れたのちに皇室の家法として、伝統に則り皇室の方々によって粛々と運用されるべきであると考えます。日本国臣民としてはこれに従う道のほかはないと考えます。

 

さて、戦後の教育では、天皇陛下について学ぶ機会はほとんどないに等しいといっても差し支えないでしょう。憲法に書かれている象徴以上のことは触れられません。あるとすれば、宮中行事で田植えをされている程度の記述でしょうか。
これでは正しい天皇陛下のお姿は伝わりませんし、本日のメッセージも正しく受け取ることができない恐れがあります。
というわけで少し天皇陛下の担われている仕事について少し補足を行います。

法律に定めるところの国事行為、参議院の開会の詔であったり、外交への参加、その他公式行事での挨拶等はみなさまご存知のことと思います。しかし本当に大切な天皇陛下のお仕事は、国と民安かれと毎日祈りをささげ治(し)らすこと。そして、豊葦原瑞穂国(日本)を理想的な世の中にするべく、国民に対しかくあるべしとする国民像について自ら範を示し続けることです。これが古代より連綿と受け継がれてきた最も重要な仕事です。私たちは、その姿を見て天皇陛下を敬愛し、大切に思い、どのような激動の時代にあっても、行先を違えることはなかったのであります。つまりは日本人が日本人であるのは天皇陛下がいて皇室があるからなのです。伝統を冠した皇室がなくなってしまえば、それは日本という名前のついた民族あるいは国土にすぎず、変容してしまっているのです。

後半は詰め込みすぎたように思い反省をしております。詳しく勉強してみたい方は、私の稚拙な文章を離れ、日本書紀または古事記あるいはその解説本を手にとられることをおすすめします。
長文にお付き合いくださりありがとうございました。天皇陛下万歳。

東京でいろいろ。

総務省の手続きで東京に上京しておりました。

前から興味のあったスマートフォンのNFC機能を飛行機搭乗時に使ってみた。いままではバーコードの書かれた紙をかばんのどこかからか引っ張りだして、リーダーにかざす必要があった。NFC機能を使えば、スマートフォンを近づけるだけでよい。

うーん、便利なものだなぁ。

さて、総務省の約束の時間まで少し間があったので、恩師を訪ねてみた。

DSC_0210ここは根津駅の出口に隣接する坂。名前があったように思うが思い出せない。この坂を上がったところに弥生式土器の発見現場を示す石碑が建立されている。

青春の坂、というほどには歩いていないような気がする。
根津駅周辺にはちょっとした食事処が多くて、一本裏通りに焼魚の大変美味しい定食屋があったことを思い出す。美味しいだけじゃなくてとてつもない量なんだなこれが。

ほかのもうなぎ屋やパスタ屋、インドじゃなくてスリランカカレー屋などいろいろな食事処がある。根津神社のツツジもそこそこにランチツアーにいくことをオススメする。

 

研究しているフリ古巣に寄ると-といっても建物は変わっているが-研究室の魔法使いが仕事をしていた(フリ?)。どうやら研究サンプルの泥に関する資料をpptで作成しているようだ。

このあと彼(大先輩)は教授にデータの提出を督促されていたようだった。

水深5,600m、南鳥島のマンガン団塊のサンプルとその採取シーンの動画を見せてもらった。まだ公表されていないものらしいのでここには載せられない。そのうちテレビで放映されたなら、あの記事で言ってたやつこれか・・・と思いだしてもらいたい。

残滓私が入学したころには、こっち系の立て看や貼り紙がそこかしこにあったように思う。年々数が減っていることから、活動が下火になっていることが伺われる。

祖父を連れてここを訪ねた時、このような掲示の存在にショックを受けていたことをいまでも覚えている。当時はその反応を不思議に思ったものだが、遅まきながら、今日の自分ならあの時の祖父の気持ちが少なからず理解できているのではないかと思う。

ちなみに、この掲示されているものについて言えば、先生や学生、もしくは学外の人間の誰がやったのかはわからないのである。

 

その後、大学時代のサークルの後輩にあった。前日の連絡、そして社会人にもかかわらずみんな駆けつけてくれた。ありがたや。だれか高知に移住してこないかな?(笑)

オバマ米大統領の広島訪問に思う

記事にするには少し旬を過ぎてしまった感はあるが、意義のある出来事だと思うのでコメントしてみる。

広島・長崎の原爆投下と言えば、はだしのゲンと修学旅行。私が小学生の時にも宮島と原爆の語り部はセットでした。記念館も見学した後には、小学生ながらに戦争はいけない、こんなことを二度と繰り返してはいけないなと思ったものです。

しかし違和感もないわけではなかったのです。小学生の平和授業や就学旅行の広島コースのどこにも落とした者の輪郭を明瞭にする言葉はなく、まるで日本一人だけが加害者であり被害者でした。そのチグハグが解消されるには教科書以外の勉強が必要であり、戦時国際法の存在や極東軍事裁判(東京裁判)の茶番、かの国をはじめ戦勝国の欺瞞を知る必要があったのでした。

さてさて、主題に移りましてオバマ大統領の広島訪問。安倍総理でなければ決して実現できなかったと思います。ありがとうございます。

まず私の胸に去来したのは、よくやった、よく来てくれたという思い。71年かかったけれども、この度のできごとによって犠牲者、ご遺族、あるいは広島を知る人々のやる方無い思いも、幾分かは晴れたのではないかと思います。また、直接的被害者ではない私ですが、少なからず溜飲を下げたという点において、そしてほとんど多くの日本人が同様の感情を持ったという点において、日本人的なるものの存在をひたと感じ感動を覚えたのであります。

次の感情は、戦勝国の欺瞞がのさばり続けること、謝罪がなかったことへの少しの落胆。原爆投下は必要だったというのがかの国の政府見解であり、彼らの教科書にも書かれていることですから、そのようなことを期待することもなかった。事前に謝罪に行くのではないとも言っていましたしね。どこぞの国のように歴史を外交カードにするつもりなど毛頭ないのです。しかし期待していないとはいえやはり落胆はする。戦時国際法の無差別攻撃の禁止に明らかに抵触しているわけですから、ダメなものはダメ、いつかはその非を認めて欲しいものです。それが道理というものです。
ここで極東軍事裁判で有名なパール判事の言葉を引用します。

時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう。 ラダ・ビノード・パール

さてさてすっかり長文になってしまいました。つまり、今回の訪問は大いに評価できるが、多少の落胆も招いたというのが結論です。ということは評価しているのは外交手腕ということになるのか?

おまけ。情報収集をしていると、いろいろな物の見方があるのだと関心させられた。一つは、アメリカによる日本の核保有論台頭の封じ込め。トランプの尻ぬぐいをオバマ大統領がやったのだという考え方。もう一つは、かつて核兵器を廃絶するといってノーベル平和賞をもらったオバマですが、任期も残り僅かですしそのアウトロとして広島訪問して核兵器廃絶を謳ったというもの。

いやー、消費税増税先送りとその反対と解散のことにも触れたかったのですが、次回かな?


参議院議員通常選挙についての雑感

第24回参議院議員通常選挙まであと1月。
公示日と告示日の違いについて聞かれたがよくわからなくて調べた。要は天皇陛下の国事行為であるかないかの差というのが私の結論だ。

衆参の通常選挙の実施にあたっては、天皇陛下の公示を伴いますが、補選にはそれがなくて掲示板による告知である。前者は公示で後者が告示。統一地方選挙や首長選挙はしたがって告示日である。

ちょっと賢くなりました。

さて、今回の参議院選挙に関係なくもない身の上としてとりとめのないことをつらつらと書いてみようと思う。

とにかく感じるのは選挙制度のまずさ。0増5減で高知・徳島、島根・鳥取の選挙区が合区となりました。一票の格差かなにかしらないが最高裁はどうかしていると思う。かつて統治行為判決を出したことがあるのだから、おなじ考え方をひっぱってきて原告の訴えを退けるべきだった(笑)付け加えるなら、こういう状況に至るまで対策を講じていなかったという過失が自民党にもあると思う。

この状態を放置しておくと、何か奇跡的なことがおきて都市の人口が地方に分散しない限り、一票の格差の問題は拡大を続けるわけで、地方都市の定数がさらに減って、大都市選出の議員がますます増えることとなる。そうすれば、国会で審議されてる様々な政策の考え方が大都市寄りとなってしまう。地方活性化などとは言うが実際には地方の声が政策に反映されにくくなり、さらに地方が衰退するという悪循環に陥ることが懸念されるのである。

問題の根本解決は、原因のそもそもが憲法(憲法14条、憲法15条、憲法44条は、国民が政治的価値について平等であることを要求している)を根拠とした最高裁判決にあるので、裁判官の思考様式(流行)が変わるか、憲法改正しかないのである。前者はそうそうなさそうなので現実的に実行しうるのは後者ということになろう。

憲法改正をしなければならない理由はたくさんあるが、今回の選挙制度もそのひとつに数えられるというのが今日の一つの結論である。

現場のお話に移ろうかと考え始めた矢先に眠気が来ました。今日はここらあたりで。