土佐神社-月次祭 と最近気になる物

世間一般では、4月1日はエイプリルフールの日として認知され、話題となり注目を集めたい企業や個人さんが、その身を削ってネタ作りにいそしむのが慣例となっているようです。

私にとっての今年の4月1日は、土佐神社月次祭へはじめての出席の日。あいにくのお天気ではありましたが桜の咲き誇る参道を横目に到着!入蜻蛉形式の土佐神社の拝殿にあがらせていただきました。

月次祭とは何するものかと言いますと、国家安泰と天皇の弥栄を祈念するものです。わずか30分ほどのお祀りです。興味のある方は月の1日9時45分頃に、土佐神社までお越しくださいませ。どなたでも参列することができます。

ここ2,3日は神社に縁のある日が続きます。明日(すでに今日)は護国神社の春季大祭に出席。明後日の朝も土佐神社で一仕事。ありがたいかぎりです。

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さて、最近気になる話題についても触れたいと思います。
昨年あたりからよく耳にするようになりました、セルロースナノファイバーという素材についてご紹介します。植物から得られるこの素材は、CNF、BNFなどと呼ばれています。以下CNF。細かな解説は以下の動画を御覧ください(音あり)。

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=JQT7XfYP87w[/youtube]

鉄の1/5の軽さで5倍の強度、プラスチックよりも熱に強く、ガラスよりも曲げが効くって何かすごそうですね。
さらに私が胸踊らされる理由は、その原材料が木材(植物)から調達可能という点。
木材の建築材としての需要が減少しつつある今日、木材の新しい活用方法を見出せるかいなかは、地方の中山間・過疎地域にとって死活問題です。現在本県では、CLTや木質バイオマス発電などで(古くて)新しい木材の活用方法を確立しようとしていますが、まだパンチが足りないとの思いがしておりました。しかし、CNF実用化の暁には、山の衰退の問題が抜本的に解決されるのではないかと期待が膨らみますね。なんせ身の回りにあふれかえる化石燃料由来のプラスチックや金属の製品、これらがCNFに置き換え可能となれば、山にいったいどれだけの引き合いがあることか・・・環境にもやさしいはず。

実用化に向けて解決しなければならない課題もあります。定番ではありますが、量産化技術の確立、関連して生産コスト低減の課題を乗り越えなくてはならないようです。

高知県でも、本年度予算に紙産業技術センターに高性能機械導入のための予算を計上していたので、ひょっとしてCNF絡みかなと期待をしてしまいました。説明を聞いてみると高性能不織布製造装置導入のための予算ということで少し肩透かしを食らった気分。もちろん不織布も大切ですよ!

というわけで私の最近思いは、民間企業との連携の下、本県でCNF実用化に向けた取組みができないだろうか?というもの。静岡では県が相当力をいれて取組みをはじめていますが、これに追いつきたいですね。私も引き続きお仕事させていただけるようでしたら、本件について積極的に調査・提案を行っていきたいと考えております。

海上自衛隊艦船入港

昨日は海上自衛隊、護衛艦くらま、練習艦しらゆき、練習艦せとゆきが高知新港に入港するにあたり、歓迎セレモニーに出席をいたしました。夜は引き続き歓迎レセプションにも参加。

非常に慌ただしい時節ではありますがそれはそれ。日本の国土と国民の生命、財産を守ってくださっている自衛隊の方々が、呼びかけに応えてわざわざ高知に寄港するとなれば、敬意と感謝の気持ちを持って歓迎したく足を運んだ次第です。

今日は練習艦せとゆきの一般公開も行われるとのことですから、お時間の許す方はぜひ高知新港に足を運んで頂ければと思います。詳細は下記ページにて。
自衛隊高知地方協力本部

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いろいろな方から記事は短くするようにとご指導受けておりますが、書けるとき、書きたくなる時の出会いというものも貴重であります。せっかくのことですから長文になることをご容赦頂ければと思います。

去る21日春分の日は単なる祝日ではなくお彼岸の日でもありました。
お彼岸とは先祖や亡き人を思い返し、感謝の念を捧げる日本の伝統的仏事ですね。私も旧吾北村は清水上分の郷里を訪ねて墓参りをしてきました。すっかり荒れ果ててしまった郷里の状況に、ご先祖様や祖父母に対して申し訳ないとの思いで一杯です。

その後、郷里を懐かしく思い友人の家を訪ねたところ、その家の前には心安らぐ景色がありました。右側に隣接して人家があります。撮影家の技量の問題か、きちんと趣を伝えることができないかもしれませんが、そこは読者の想像力で補完していただければ幸いです。この景色の中でに日本の心が育まれてきたように思います。我々が守るべきものです。

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雑感:昨年を振り返って

本来ならば昨年中に書いておくべき記事ですが筆不精だけあって今日までかかった次第です。
本サイトの読者の皆様、改めまして今年もよろしくお願い致します。

さて、昨年の印象的なできごとは何かと聞かれれば、集団的自衛権行使に関する内閣の解釈変更がまっさきに挙げられます。自衛隊が発足した日と同じ、7月1日に閣議決定されたと記憶しております。これについては過去に関連記事をあげましたので省略

つぎに本県を襲った集中豪雨。私の住まう一宮地域しなね川もあわや決壊直前まで水嵩が増しました。土佐山のがけ崩れなどの直接的被害だけでなく、観光、農業、漁業などの様々な分野において間接的経済的被害が生じました。とはいえ他県と比較すると被害は比較的小規模であり、その原因を探れば先人による公共投資の賜物であることがわかります。異常気象という言葉が使われすぎて、いったいどのあたりから異常なのかわからなくなってしまったこのごろですが、もし異常事態が起きているのであるとすれば、その原因が温暖化現象由来なのか、それとも実は間氷期から氷期に移行しつつあることに求められるのか、個人的には大変気になります。

次に水素化社会の到来。燃料電池の普及によって水素化社会が訪れるとは昨今の新聞・報道等でよく目にするところです。詳細については前に記事にしてありますのでそちらをご覧ください。あとは優秀な二次電池が開発されれば・・・

次に最新の住宅建築事情。これは世間一般のニュースというよりは個人的興味に属するお話です。とりあえず建てるというステージから、耐震性、さらにはリフォームなどと業界もいろいろと工夫を重ねてきました。最近では長期優良住宅、さらには省エネ、健康省エネとさらに変化を遂げました。省エネの流れを受けて、住宅の断熱性・気密性が高まりました。最新の住宅に行ってみると、冬場にもかかわらず廊下と今の温度がほとんど変わりないことに驚かされます。とあるモデルルームではたった一台のエアコンで一階全体の温度をコントロールしていました。一方で気密性の高さゆえの副作用もあって、建築途中で使われた接着剤や溶剤などに含まれる化学物質が住人に健康被害をもたらすということで社会問題にもなりました。現在はこの問題に対処するために室内換気システムを導入することとされています。この換気システムにも一工夫あって、室内の湿度や温度を一定に保つことのできるものもあるそうです。

次にSTAP細胞。一連の騒動を知らないものはいないでしょう。非常に注目度の高い分野においてこのような騒動が起きたことは大変残念でなりません。見方を変えれば、注目度が高いからこそこれほど騒動になったともいえるかもしれませんね。自分が大学院で研究していたころの経験からいうと、iPSはじめ関連研究はリスクが高いと見做されて、しばらくは後進の研究者が続かないかもしれません。世界に遅れをとるようなことになりませんように・・・

次に整備新幹線の試算。高知をはじめ四国に新幹線を引いた場合のコストは?採算とれるのか?そういったことについて検討が行われました。今のスケジュールのままですと実際に走り始めるのは40年先のようです・・・

ほかにもあったかもしれませんが、すぐに思いついたものを並べてみました。

 

最後に12月23日、天皇誕生日を祝う高知県民の会で行われたオ・ソンファ(呉善花 )先生の講演をご紹介したいと思います。彼女は日本に30年ほど滞在をしている大の親日家であり、その筋に詳しい人ならば著書もいくつか手に取られたこともあるでしょう。昨年には母国の韓国に親日的であるという理由で入国拒否されたことでも有名な方です。

話のテーマは日本と韓国の違いについて。私の感じた結論から言うと、なかなかわかりあえないということがよく理解できました。彼女によると、日本と韓国にまたがる昨今の歴史・領土問題については話し合いによって歩み寄りのできる点を探るべきだと声が日本の自称識者から寄せられるが、そのようなことは意味がないとのこと。その根本の原因は風土・歴史・文化とそれらによってはぐくまれた精神性に求められるのだという。

たとえば日本人が自然との調和を大切にし、そこからはぐくまれたワビ・サビ、もののあはれという感覚を持つ。

一方韓国人は、歴史上常に大国と隣接してきたこと、厳しい自然環境、儒教の強い影響等を受けて「恨(ハン)」の精神を持つのだという。

ハンとはwikiによると朝鮮文化における思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、無常観をさす朝鮮語の概念とのこと。ハンが形成された背景には行き過ぎた上下関係とその関係を維持するための行き過ぎた儒教が存在している。こういったことから、韓国人は完全性、完全なる美しさにこだわるのだという。その典型が、韓国で蔓延する整形ブームにあらわれている。

日本との比較で言えば、秋の落葉を迎えた一本の木を前にして、日本人ならばものさみしさを感じ、はかなさやうつろいやすさに感動するところ、韓国人ならば縁起の悪いもの、汚いものとして忌避するのである。だからというべきか韓国では造花が大変好まれる。完全美でなくてはいけないのでる。

また、完全性を好む韓国人は、日本人にはとうてい受け入れがたい、理解しがたい気性を有する。それは自分たちの完全性がゆるぎないものであるために、自分たちには一切の非がない、あってはならないとする気性である。そのような彼らに都合の悪いことが降りかかれば、その原因はいついかなるときも外部、他者に求められるのである。

したがって韓国が日本に対して歴史的・領土的いちゃもんや、それに関する謝罪を要求する場合、彼らは心底自身の正しさを信じているし、たとえ間違いがあったとしてもそれを認めることは絶対にありえない。果たして、彼らと妥協点を見出すための交渉をすることにどれほどの意味があるだろうかと思わずにはいられない。彼らにとって外部に常に悪者がいることは都合が良く、その意味において日本は大変良い受け皿であり、またたとえどんな謝罪をしようとも未来永劫(万が一非があるとすれば)赦されることはないのである。

この彼らの性格と韓国のイ・ミョンバク大統領もたらされた事件は無関係ではない。彼らの求める完全性、完全なる美をそなえつつ、韓国人を導く存在こそが大統領でなくてはならない。韓国人にとって、かつてイ・ミョンバクはこのうえなく美しく清い聖女とも言える存在であった。その彼女の不倫情報を産経新聞韓国支局がすっぱ抜いたのだからこれを許すはずがない。自身の清らかさ否定するものが現れたならば、それは韓国社会の在り方から言って、彼女の政治生命に致命傷を与えるものとなる。だから彼女はいかなる手段を用いても産経新聞韓国支局を屈服させなければならなかった。

なるほど、今まで不可解であった韓国人の挙動について納得できるお話ばかりである。こういった韓国人論が世間一般に認知され、お互いにわかりあえないことがわかれば、二国間の様々な課題は、感傷論・感情論を抜きにして利害だけを基準にした純粋な外交交渉として処理することができるようになるかもしれない。

最後にオ・ソンファ先生はどのようにして親日的になりえたかというお話。彼女が言うのには、一般的な韓国人留学生は、滞在3年目にして、日本のことが理解できなくなり、母国に帰り日本を否定的な論調で語るようになるのだと言う。1年目は日本人の親切さ、街の清潔さなどたくさんの目新しい要素にすっかり魅せられる。2年、3年と日本語を解し、ある程度日本の文化に深く触れるようになったときに、母国の文化とのギャップに驚き悩まされる。たとえば日本人は、外部の人間から会社に電話がかかってきた場合、上司に対する問い合わせであっても、身内には決して尊敬語を使うことはない。「○○は不在です」しかし、徹底した儒教国家の韓国では、上司はや身内は絶対に敬うべき存在なのである。電話では「○○社長はいらっしゃいません」と対応することになる。ほかにも脱いだ靴をどのように揃えるかという点にも違いがある。日本人は脱いだ靴のかかと側を屋内に向けて揃え直すのがマナーである。韓国ではつま先を屋内に向けるのが一般的で、かかと側を屋内に向けて揃えるものがいるとすればそれは家人で、来訪者にできるだけ早く帰ってもらいたいことをほのめかすためのサインだ。多くの韓国人が日本でないがしろにされていると感じてしまうのである。我々も彼らのことを自身の文化の延長線上で計ることにより、わかったような気、わかりあえるような気になるが、そのぎゃくもまたしかりということである。韓国人もようは彼らの文化的尺度の延長線上において日本人の振る舞いを解釈してしまう。

オ・ソンファ先生も、3年目には日本を失意のうちに立ち去り、ヨーロッパに退避をする。しかし、もう一度日本を訪ねた際に、韓国内で培われた日本に対する常識、偏見ともいうべきものを完全に捨て去り、さらには自国の常識すらも持ち出すことなく、あるがままを理解するよう努めることとした。そうする中で、日本の自然・風土によってはぐくまれた文化や歴史、そこに育まれた日本人の精神性を理解し、愛するようになったとのことである。

彼女の使命は、母国の韓国人に正しい日本理解をしてもらうことと言っていた。大変ありがたい話であると思う反面、彼女の本が韓国で韓国語にて発売される日がいつか来るのだろうかと、悩ましい気持ちにもなる。

雑感

実に久しぶりの更新ですね。
アクセスログを見ると、12月2日は普段よりたくさんの方が当サイトを訪問してくれていました。
衆議院選挙の告示日でもありますし、何かコメントをするのではないかと期待してくださったのでしょう。私はどうしていたかと言うと、公職選挙法が改正されてインターネットの利用がどのように制限されたのか検討がつかなくて、書くにかけないなぁなどと思いつつ、選挙のお手伝いをしていたのでした。ご期待くださっていたみなさん、申し訳ありません。

さて、まず時節柄コメントすべき内容は今回の衆議院選挙についてであろうと思います。
私は政治的に極めて上手な解散総選挙だなぁと感じていました。嘘じゃないですよ!西内健さんに確認してみてください(笑)
解散当初は、争点がわからないとかいろいろ批判がありました。自分なりに理解しようと安倍さんの胸中は如何に?と勘繰ってはみますが、所詮は他人ですから分かる筈もありません。そこで、この国にとっていま一番必要とされていること、つまり国益に繋がることはなにかと問いかけます。日本の首相、日本の課題、前者はころころ交代して、後者は山積と解くことができるわけで、そこから今日本に必要なことは長期の安定政権(内閣)を作ることであろうと結論しました。

安倍さんも1次内閣の時のことは痛切に反省をしていると思います。当時も様々なマイナス要素が噴出をしましたが、その際に安倍さんはとにかく強引に走りぬくことを選択しました。結果、足元が崩れてしまって、志半ばで政権を離れなくてはならなくなったのでした。もちろん直接的には持病が原因ではありますが・・・

ということで今回はどうしても長期政権にしなければならないわけです。そのためには早速追求された政治と金のスキャンダル問題の禊ぎを、さっさと済ませてしまう必要があった。そもそも解散しなければならなくなって解散したのでは、内閣を維持しかねますからね。

安倍さんには長く首相を続けて頂きたいですね、長く続けることが国益にかなう。だからこのタイミングの選挙とはよくやったもんだと感心しています。

 

一応本人が、解散の理由を説明していますのでその点にも触れておきましょう。解散で信を問うは主に2点についてとのことです。

  • アベノミクスの評価
  • 消費税増税先送りの是非

よく巷で、アベノミクスと消費税5→8%の功罪を混同した話がされていますが、これは正しく世の中を理解するためにも分けて考えるべきだと思います。まずアベノミクスのゴールが雇用を増やすとともに賃金を増やすことであるとする。雇用拡大と経済指標を見れば、一定進捗していると評価することができます。株価や企業の倒産件数の減少はもちろんのこと、高知でも税務署の報告では法人税が大幅に増えましたし、有効求人倍率も0.84超えの高い水準を保っています。では賃金はどうなのか?今年度、中小企業の3分の2が賃金の引き上げを行いました。名目総雇用者所得は2014年は1.6%のアップとのことです。ポイントは物価上下を考慮した実質総雇用者所得がアップしたかですが、消費税要因を考慮しなければプラス圏にあります。

以上より、アベノミクスはある程度成果を出していると言えると思います。

しかしここで問題となるのが、消費税要因を考慮した実質総雇用者所得です。5→8%の引き上げによって物価は高騰し、実質総雇用者所得は5月以降、前年同月比マイナスで推移しています。これでは実質上の給料減です。さらに言うならば、高知の中小企業においては、そもそも4月に賃金引き上げを行わなかった事業所も多いことでしょう。冷え込みが長かった分、また、2015年秋に8→10%が待っているとすれば慎重にならざるを得ないのも頷けます。実感がないだけでなく、消費増税によって生活がますます苦しくなるはずです。以上から自民党が責めを負うべき点があるとすれば、この春早々に消費税率のアップをしたことです。まあ、前年度後半の経済指標からすればなかなか難しい判断ではあろうと思いますが。

以上を踏まえた上で、合点いくのが消費税率8→10%先送りの18ヶ月(2017年4月)という期間の長さです。給料アップの機会がいつ訪れるかと言うと4月。2013年の4月は政権交代後間もないので考慮しないとして、2014年の4月は賃金アップされました。しかしこれでは消費税率8%へのアップによる物価上昇分をカバーしきれなかった。ならば、2015年、2016年、2017年と3回賃金アップの機会を待とうじゃないかというわけです。18ヶ月という期間でもって、高知をはじめるとする地方の中小企業さんの背中を押して、賃金引き上げに踏み切っていただく。もちろん、賃金アップを可能とするための景気の好循環を、政府は維持するべく政策を講じなくてはならないのであります。(消費税そもそも上げなくていいんじゃないかという議論は別に譲ります。)

というわけで、今回の解散では、「アベノミクス」と「消費税増税先送り」の是非について国民に問うているわけです。

 

今日も長々と書いてしまいました。
最後まで粘り強く読んでくださった方のために大変興味深い動画を紹介したいと思います。動画の内容は、上で散々言ってきたこととは相容れない内容ですがご容赦ください。世の中急激に変わるのはとにかく良くないものです。ある程度時間をかけながら、彼の言うところを目指すべきであろうと思います。

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=Q7aJcf_Lexs[/youtube]

門田隆将さん続き~ネット新時代のジャーナリズムを考える 朝日新聞は何に敗れたのか

ようやく終いをつけようとしております。

結論から先に。

ネットの登場によって、イデオロギーによって歪められた報道ができなくなった。朝日新聞はそのことに気付かない限り、凋落を免れないであろう。

といった内容でした。

 

事件のはじまりは吉田調書。
(福島第一原子力発電所事故当時に、福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎が「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」(政府事故調)の聴取に応じた際の記録の通称 wikiより)

朝日新聞社は、政府が非公開としていた「吉田調書」を独自に入手し、5月20日付1面などで「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じました。ちなみに見出しは「原発所員、命令違反し撤退」です。

門田隆将さんは、「死の淵を見た男」という福島原発事故を題材としたノンフィクション本を出版しています。その記述は、吉田所長はじめ、運転員へのインタビューを脚色なく、また自分の考えを交えることなく記述したもので、非常に資料的価値の高いものとして評価されています。原発事故後に現場で何が起こったかについての第一人者、世界一の専門家といっても差し支えないでしょう。

彼が台湾滞在中の5月20日、日本では朝日新聞によって先述の記事が発表されたのでした。膨大な問い合わせのメールや着信があって、事情を知らな本人は大変驚いたそうです。周りの知らせで経緯を知ると、朝日のオンライン記事にて問題の記事を確認をしました。見出しを見た瞬間に、いつものイデオロギー調で、また大変な誤報だなと思ったそうです。

門田さんによると、日本の報道には真実に基づく報道と、イデオロギーに基づく報道の2タイプがあるそうです。

前者は、取材を積み重ね、ありのままに報道を行い、解釈を受け手側に委ねるものです。後者は、イデオロギーを先行させ、自身の主張を正当化する内容になるよう事実をピックアップして組み立てたものです。
門田隆将さんは、後者の記事を書く記者が自身の正義をゆるぎなく信じているという特徴を捉えて、その症状を自己陶酔型シャッター症候群と命名しました。
たとえば、平和といえば反戦。その主義主張を貫く自分に正義がある。自分カッコイイ!自分の意に沿わない主張をするものは反戦の反対で戦争を推進する輩、平和の敵!右翼!といった風です。

さて話を戻しますが、日本に帰るなり門田さんはブログに朝日新聞の報道は誤報であるとの記事を掲載しました。これを見たネットユーザーから情報が拡散し、大手ブログの紹介サイト?なるところに掲載されると、週刊誌から記事を書いてくれるよう依頼が持ち込まれます。

これを契機として、門田さんは、所長と所員への直接インタビューに照らせば、朝日新聞の件が誤報であることは疑いようがないと、ありとあらゆるメディアに対して説明を行っていきます。その間には、朝日新聞から名誉毀損で訴えるという連絡があったそうです(笑)

そしてある日、某新聞社から吉田調書を手に入れた旨の連絡があります。某新聞社は総力をあげて調書を精査し、朝日新聞の言う「命令違反し撤退」が無いことを確認したのでした。その後吉田調書が各メディアに出回り、それぞれが朝日新聞の報道が誤報であったことを伝えました。朝日新聞が完全に包囲されたような状態に至って、ついに自らの誤りを認め、謝罪を行ったのでした。これが平成26年9月11日のこと。

この後に、朝日新聞井村社長は、社員を激励するために以下のような激励メールを送っていることが明らかとなっています。


 

「長年にわたる朝日新聞ファンや読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から、「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励を頂いております」
「2年前に社長に就任した折から、若い記者が臆することなく問題を報道し続け、読者やASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の報道にひとつの「けじめ」をつけたうえで、反転攻勢に撃って出る体制を整えるべきだと思っていました。
今回の紙面も揺るぎない姿勢で問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えております」
「問題を世界に拡げた諸悪の根源は朝日新聞といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力り断じて屈するわけにはいきません」
「私の決意はみじんもゆらぎません。絶対ぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらがこち国益にかなうかなうアプローチなのか


 

門田隆将氏の言う、自己陶酔型シャッター症候群という言葉がこれほどしっくりくるとは・・・恐るべし。自分たちの正義がいささかも揺るがないと考えている。そして、自分たちの意に沿わない人間は、偏狭なナショナリストで中韓との関係を悪化させ、戦争の惨禍を再び招こうとしている危険なやつらだと、レッテル貼りをしているのです。この話を披露した門田氏は、会場にいた人たちに対して、「朝日新聞の言う『彼ら』とは会場にいらっしゃるみなさんのことを言っているのですよ」と戯け、ドッと会場を沸かせていました(笑)私の知る限りでは、本気で戦争を望んでいる人など周りにいませんがな。

さて、事程左様に、巨大マスメディアの朝日新聞が、一人のジャーナリストに屈してしまったのでした。一昔前ならば、大手メディアが何を書こうがやりたい放題だったのですが、情報発信に双方向性を持つネットの登場によってそれができなくなった。それぞれの分野でスペシャリストと言われる人たちがいて、彼らがメディアの過ちをネット上で指摘をすれば、時にそれは大きな流れを起こし、巨人を引き倒してしまうことも可能となったのでした。もしこのことに気付かず、あるいは見て見ぬふりをして、従前どおりイデオロギーに基づく記事を書き続けた場合、その媒体の末路は目も当てられないものとなるでしょう。真実、その特攻 の話と通底するところがありますね。

以下は余談です。

ある日、門田氏のもとに吉田所長が訪ねて来たそうです。吉田所長が言うのには、彼の福島原発について書いた本を読んだ人たちから、門田氏を訪ねるように幾度と無く言われたから、会いに来たとのことでした。その後、病床の吉田所長は、息子に対して門田氏の本を読むように言付けました。「これが現場の真実の声だ」と。

さらに、門田隆将氏は、福島4号機の副所長から聞いた印象深いエピソードについても語ってくれました。この副所長も名を同じく吉田と言うそうです。事故直後ベント開放に行く奴はいないかと吉田所長が聞きました。全電源を喪失した環境下、当然原子炉建屋は真っ暗闇、足場も悪く、また大量の放射線が生じています。死を覚悟した上での作業です。その時に「はい」と手を挙げたのが四号機の吉田副所長その人でした。インタビューの中でなぜ志願をしたのかを尋ねたそうです。吉田副所長が言うのには、「自分は10年前に東京電力に技術者として入社した。自分が最初に担当した炉が1号機であった。つまり自分という技術者の育ての親が1号機であったのであり、そのことに心から感謝をしている。そして、もう1つ。原子炉にもそれぞれ性格がある。優しいやつもいれば、気性の荒いやつもいて、それぞれ違うのだ。1号機はじゃじゃ馬だけれども、本当は心根の優しいやつなんだ。その優しく、育ての親でもある1号機が原因で、日本をダメにしてしまうかもしれない状況にいてもたってもいられなかった。だから私はそれを止めるために志願をしたのだ。」

 

福島原発だけでなく特攻もしかり、各々の時代に、家族のため、祖国のために命を賭した人がいて、お陰様で今日の私達があるわけです。その積み重ねが伝統や文化を織り成し、さらには精神や血肉となって日本人を形づくる。今日においても、先人同様に自身の命を賭して、世のため人のために次代のために尽くす人がいることに何の不思議があろうか。

門田隆将さんの講演

先週末の25日、今週日曜日の26日、門田隆将さんの講演を聞きに行っておりました。
素晴らしい内容でしたので、その概略について紹介したいと思います。

25日@高知城ホール
「特攻、その真実」

わかる人にはわかる会場です。主催は高知大学の先生、教育学部 加藤誠之准教授です。

まず主催者挨拶として加藤先生からお話がありました。

・永遠の0が大ヒットした
・高知大学の学生たちにも大ウケ
・特攻隊の姿に感動した、お陰様で今があるとの感想
・この生徒たちの反応に危機感を抱く
・戦争の記憶が風化し
・戦争を美化する傾向にあるのではないか
・本講演を通して、特攻、その真実について触れ、多様な角度から検証することにより
・この流れに歯止めをかけたい

といった趣旨だったと思います。(この導入に怒った人が何人か帰ったようです)

そのお話の後に、満を持して門田隆将さんの講演。
ジャーナリスト門田さんが良い取材をするためにまず心がけることは、取材時には対象者のお話くださっている時間と空間に身を投じることだそうです。
今回のお話をするにあたっても、特攻隊員の生き残り、あるいは関係施設で働いていた方に直接インタビューを行いました。その際には今日の価値観を捨て去って、当時の人が何を見て聞いて感じたか、これをできるだけ忠実に追体験・再現できるよう心がけます。

さて、本題の特攻のお話ですが、

平成26年10月25日は、フィリピン、マバラカット基地から敷島隊による最初の神風特別攻撃が行われてからちょうど70周忌にあたる日。

まず特攻の前段として理解しておかなくてはいけない当時の背景は、日本軍の劣勢はもとより航空機パイロットの練度が極端に低下をしていたこと。マリアナ沖海戦、フロリダ沖海戦などでたくさんの熟練パイロットが失われていたこと。レイテ沖海戦では、海上で戦うことを前提に訓練をされていない陸軍の航空パイロットが投入されたほどの人材不足であった。天文航法によって水平や位置を把握する海軍に対して、陸軍は地文航法を採用していたため、海上で天地や方位の感覚を失ってしまい、敵機に七面鳥撃ちと呼ばれたように容易に撃墜されてしまったり、洋上に墜落することがあったということなど。

こういった背景のもと、空母への最も有効な打撃を与える方法はこれしかないということで、神風特別攻撃隊が編成されることになった。マバラカット基地で編隊を命ぜられた玉井浅一中佐のもと、甲飛10期生33名に対し、「25 番(250 ㌔爆弾)を零戦にハンダ付けして、貴様たち突っ込んでくれ」と志願が募られる。(ハンダ付けとは暗喩であって本当にハンダ付けをしたわけではない。)門田さんのインタビューによると、実際には候補者は40名程度いたとされ、その誰もが特攻の希望者を募った際には押し黙ったそうだ。その後しばらくの間を置いて、半ば雰囲気に圧された形で志願者の手があがると、上官から間髪入れずによしわかった、よろしく頼むという旨の締めの言葉があったとのこと。

神風特別攻撃隊の出だしは順調ではなく、最初の2度の出撃は空振りに終わっている。敵艦発見の報がもたらされても、特攻隊が現地に到着する数時間後には敵艦隊を見失ってしまっていたのである。軍上層部の中に特攻隊に対する冷ややかな声があがりはじめた頃、三度目の出撃にて関大尉率いる敷島隊による初の特攻がなされた。(最初の特攻が関大尉率いる敷島隊かどうかには異論もあるようです)

この第一次特攻隊には高知出身者が3名含まれており、その中の宮川正さんには豪快な逸話が遺されています。宮川さんは、周囲の張り詰めた空気の中にもかかわらず、自分は無駄死をしたくないのでどのような飛行方法が最も特攻の成功確率が高いか、みなさんの意見を聞かせていただきたいと周囲に相談したという。

戦後教育の中で、世間一般には、特攻とは天皇陛下万歳といった掛け声のもとに、悠久の大義のために、国家のために特攻がなされたと理解されているようですが、必ずしもそうではないと。関大尉におかれては、特別攻撃隊の編成の決まった20日の晩の記者取材に対して、「俺みたいな優秀なパイロットを殺してしまうなんて、もう日本はだめなんだ。もう日本はお終いだよ」そして「俺は天皇のためとか、国のために行くんじゃない。もし日本が負けたら妻が米兵に暴行されるかもしれない。だから俺は彼女を守るために行くんだ。どうだ、素晴らしいだろう。」と返答している。

さまざまな事情によって生き残られた特攻隊員に対して取材を行った際には、関大尉同様に、家族のためにいったのだという話が大勢を占めたそうです。

それともうひとつ。当時の特別攻撃隊は十代後半から20代前半の学徒出陣によって徴兵された人々が多く参加していました。旧帝大等に在籍していた彼らは、今よりもはるかに厳しい受験戦争をくぐり抜けた、同世代上位0.4%のエリートによって構成されています。親の溺愛も今以上であり、入隊式には家族が大挙して押し寄せるということで、巷の混乱を避けるために陸軍と海軍の入隊式の日を数日ずらしたほどです。さらには、艦船に配備された息子可愛さに、上陸の自由時間を少しでも長く一緒にすごすべく、海軍基地周辺に母親などが下宿をしていたこともあったそうな。そのような環境下にあった学徒たちがどのような気持ちでこの戦争、特攻に臨んだのかということには、門田さんも大変興味を惹かれインタビューを行います。

まず、彼らの多くは反戦であった。頭脳明晰な彼らからすれば戦争などするべきではないとの結論に至るのは当然のこと。それでもなぜ戦地に赴いたのかと聞くと、この戦争に負けたならば、白人がこれまでアジアやってきた過酷な植民地支配が日本にも及ぶからだと答えた。有色人種を動物としか考えていない白人から、家族を守るためには戦うしかなかった。年老いた両親を、まして自分より幼い弟、妹達を戦場におくることはありえず、自分がいくしかないのだと。そして、中でも最も頭脳明晰で操縦技術の巧みな人間から死地に赴いくことになる。特攻の生き証人はその方々に対して本当に申し訳ないと涙を流しながら語ったそうだ。

もうひとつ。元山航空隊 第一 七生隊の宮武信夫大尉(隊長)と日系二世の松藤大治少尉のお話。松藤少尉は日系二世として生まれ、小学校までアメリカにて過ごす。二重国籍であり、徴兵を断ることができるにもかかわらず(日系で断った人はいる)、彼はこれを受け入れた。

朝鮮の元山航空隊に配属されたのちは、持ち前の運動神経と頭の良さでメキメキと操縦の腕をあげ、宮武信夫大尉と並ぶまでになる。宮武大尉に寵愛された彼は、大尉が「俺は特攻に行く。お前たちもついて来い」と言うと、すかさずこれに応じたそうな。彼だけでなく、生徒たちは特攻という思想には賛同できないものの、大尉にはついていきたいと答えた。

「日本は戦争に負ける。でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」
松藤少尉が福岡の親戚に残した言葉。

特攻の前夜、人々が落ち着かないままでいると、身長183センチの松藤が大きなヤカンを2つ提げてやってきた。中にはお酒が入っており、人々は最後の盃を交わしたのだった。眠れるものもいれば、そうでないものもいた。彼なりの気遣いであった。

出撃の朝、整備兵が資材の木をプロペラにぶつけてしまい、片岡機が飛べなくなるアクシデントに見舞われる。片岡氏を残して、七生隊はつぎつぎに空に飛び立つ。そらをおおわんばかりの特攻機の姿を見て、片岡氏は実に立派、実にあっぱれと感じ、勝てるはずのない戦争にひょっとして勝てるのではないかとの錯覚をおぼえたそうだ。

4月6日、七生隊は沖縄の海にて、米軍艦隊34隻に損害を与えた。

話は遡るが、宮武信夫大尉は、出発前に自由行動を許された際に実家に足を向けたことがあった。家族からどうしてもと一筆(いわゆる絶筆)を依頼されると、彼の書いた文字は「断」の一文字であったという。将来の夢、家族や友人、さまざまな物を断っていくという壮絶な決意が伝わってくる。

特攻ののちに、宮武信夫大尉の遺品が遺族に返されることがあった。遺品の中に一つだけ足りないものがあることに気付いたそうだが、それは以前渡してあった母親の写真とのこと。彼は母親の写真とともに沖縄の海に向かい、特攻し、その命を散らしたのであった。その母親からは、門田隆将氏が太平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦特攻編を出版した際に電話があった。作中に息子、宮武信夫の名前があることを人づてに知った母は、居ても立ってもいられず、門田氏に電話をし、「お陰様で息子の最後を知ることができました」とお礼を伝えたのであった。

時代は流れ、平成5年のこと。
元山航空基地で松藤少尉と日々を過ごした大之木氏という方(ちなみに門田氏は彼を通じて松藤少尉を知る)。彼は、松藤少尉の母、ヨシノさんがロスアンゼルスでご存命であること知ると、渡米を決意。彼は、昭和20年4月3日の最後の晩の松藤少尉の姿を、ヨシノさんに伝えに行ったのでした。

大之木氏の話を黙って聞いていたヨシノさんは、彼の話が終わると、
「男というものは、そういうもんです。国の大事には男はキパッとやらにゃ。大治は立派なことをして死んだんです。そうじゃないですか?大之木さん」車椅子に腰かけたまま、そう問いかけました。大之木氏はその瞬間、「ハイッ」と言って立ちあがって頭を下げたそうです。

大之木氏は言う、
「私たちは、たまたま1945年のあの時に軍人であり、若者でした。私は、戦友たちの死を無意味だったとか、可哀相だったとか、そういうことは言って欲しくないんです。ただ、ご苦労さん、よくやったとだけ、言ってやって欲しいです。」

 

以上、門田隆将氏講演「特攻、その真実」のおおまかなまとめです。少し調べて加筆してあったり、語尾が不統一であったりします。また何分、私の文章力が未熟なもので、伝えるべきことを伝えきれていないかもしれませんがご容赦ください。門田隆将氏が本当に言いたかったことは、翌日26日の講演の内容とあわせたときに、その輪郭がよりくっきりとします。また余力あるときに書きたいと思います。

長文失礼しました。

「諸君、狂いたまえ!」

「諸君、狂いたまえ!」いいですね~、つぎの私のスローガンに使いたいくらいです。(9月定例会一般質問の案内)

さて、この言葉聞き覚えの有る方はなかなかの歴史通。実は幕末の傑人、吉田松陰先生の言葉なのです。吉田松陰と言えば松下村塾、松下村塾と言えば、伊藤博文、山県有朋、高杉晋作といった維新の志士たちと、つぎつぎ連想してしまい言葉がつきません。

さて、いまなぜ吉田松陰なのかと言えば、マクロな歴史的要請もあるけれどもそれは置いておいて、ミクロで言えば日本政策研究センター伊藤哲夫代表が教鞭をとられた9月の有志塾にて、吉田松陰がお題になったからなのです。

かつて私も吉田松陰先生の伝記を読んだことがあって、松下村塾にて素晴らしい人材を育て上げた人、国のことを真剣に思い、行動された人として尊敬しておりました。受講後に松蔭先生に対するイメージが変わったのかと問われれば、より一層尊敬の念が深まったことと、「諸君、狂いたまえ!」という言葉に先生のすべてが詰まってるな、もっともっと私も頑張らなくてはと思ったと、そう答えるでしょう。

人格形成や自身を奮い立たせるにあたっては、先人の活躍譚に勝るものはないように思います。小学校の時は、学校図書と移動図書の蔵書の中から、吉田松陰をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、エジソン、ファーブルなど偉人の活躍について綴られた伝記物を引っ張り出してきて貪るように読んだ覚えがあります。こんな立派な人になりたい、世のため人の為に役に立ちたいと大変影響されました。そこに小学校周辺がど田舎ということも手伝って、サボるとか、寄り道をするとか、ウソをつくなどという言葉は私に限らず、学友の頭の辞書にもなかったように思います。

話を戻しまして、吉田松陰先生の生い立ちについてふれいたいと思います。
彼は1830年に長州藩に生をうけました。若かりし頃は、兵法学者として防備の在り方はどうあるべきかについて考えることが仕事だったようです。その情熱的すぎる行動力は、さまざまなエピソードからうかがい知ることができますが、そのひとつめが東北遊学です。

1852年、水戸藩の国学とさらに国防について学ぶために遊学に行くことを決意します。同行者の宮部鼎蔵と待ち合わせした日に藩の通行手形の発行が間に合わないということで、松蔭は脱藩をして東北に向かいます。当時において脱藩は死罪相当の重罪ですから、これには宮部も肝を冷やしたと思います。

東北で国学、水戸学に触発された松蔭は、その後水戸学をさらに深め、天皇を中心とした国家観を強く持つようになります。 『身(み)皇国(こうこく)に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。』その気概が充分に伝わってくる言葉です。すめらぎの国がどういう文化・伝統を持ってここに至るのかを知らなければ、これから進むべき道もわかるはずがない、目の前の枝葉末節のことを論じても仕方がないではないか、ということだろうと思います。私のもっとも基本的な政治信条もここにあります。

1853年には全日本人が震撼したペリー来航イベントが発生します。太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず、という有名な歌が残されていますね。今日的政治家や官僚にあたる武家たちは、来航の情報も船の構造等も知っていたようで、教科書が伝えるほどにひっくり返るような事態ではなかったようです。日本の学者たちも蒸気機関について書物上では知っていて、乗船時には確認する機会も与えられました。ただ圧倒的な工業力の差、戦力差は存在するわけで、そのことに居ても立っても居られない松蔭先生は、海外で実際に学んでくるとの決心の下、密航を企てます。まず一回目は長崎のロシア船で失敗し、さらに下田で再来航したペリーの黒船に乗り込んだまではよかったが、幕府との条約に抵触するとのことで渡航を拒否されます。下船した松蔭は真面目ですね、下田で自首して牢屋に閉じ込められます。私の座右の銘、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂 そのままですね。

長州に移監された松蔭は、まもなく杉家に幽閉処分となります。1857年、叔父の松下村塾にて教鞭をとり、有名な維新の志士たちの教育にあたるのでした。彼の教育方法の特徴はその情熱にあるというべきでしょう。教材については詩経五書をはじめすきなものを門下生に選ばせて、わからないところがあれば先生が答えるという方法をとります。それだけ自由度が高ければ、松蔭先生にも当然わからないところが出てくるわけで、その時は翌日まで待つよう言ったそうです。一晩掛けて勉強をして、目を真っ赤にした先生から、ここはこういう意味ですよと門下生は説明を受けました。門下生たちは、先生の情熱的な姿勢を見るうちに、この先生のために死のう、と考えるようになったそうです。さて、実際に教鞭をとったのはどのくらいの期間か大変気になるところです。あれだけの偉人を輩出されたのですから、6年、7年は指導されたのかなと想像するところです。しかしよくよく考えてみると松蔭先生は、1859年には処刑されていますので、叔父の塾をゆずり受けてから1年程度しか期間がないことがわかります。

これは驚きです。たった1年の教育で維新の志士、しかも明治期においても中心的に活躍する人々が育て上げられていたのです。いかに教育カリキュラムや教材が整っても、熱意に勝るものはないと痛感させられるに十分なお話ですね。

1859年の処刑に関わる話を少し致しましょう。1858年、日米修好通商条約を幕府が結んだことを耳にすると、松蔭先生は、天皇陛下の許しを得ずに勝手をしたことに激怒します。すぐさま倒幕すべしと長州のお殿様に相談をしますが、これに慌てた藩によって再度投獄されます。人生通算の投獄歴は5回とのことです。周り人々、門下生も血判状をもって思いとどまるようにと説得を試みますが逆効果。一部の門下生を除き破門、絶縁を言い渡されます。

その後の取り調べの中で、聞かれてもいない老中暗殺計画を暴露して死罪が確定します。松蔭先生としては、正しいことを主張すればわかってもらえるはずだと考えていたようです。ようするにわからないやつが悪いと。その信念は死の間際まで貫き通され、「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」との彼の言葉を残し、実に堂々とした最期を遂げられたそうです。

さて、ここでようやくタイトルの「諸君、狂いたまえ!」について解説。彼自身、自分のことを狂愚と言っていたそうです。ここでの狂人とは奇人変人ではなくて、溢れんばかりの情熱でもって積極的に行動する人のことを意味しています。ですから、門下生にはことあるごとに「諸君、狂いたまえ!」と訓示していました。その影響ははかり知れず、明治維新の原動力になっただけでなく、弟子の高杉晋作は自身を東洋の一書生ならぬ一狂生と名乗り、山縣有朋は山縣狂介と名前を変えさせたそうです。「諸君、狂いたまえ!」は、大きな時代の転換点、逆境にある今日の日本と高知にこそ必要な精神だと思います。

 

ブログ書いているだけでも感化されるから不思議ですね。いつの時代でも、良いものは良い、素晴らしいものは素晴らしいのです。ぜひ、まさに人格形成期にある人達に触れて頂きたい偉人伝です。ことほど左様ですから、今回の定例会では吉田松陰先生のお話をしつつ、偉人の伝記を手に取ってもらえるような機会、環境を整えてもらいたいと第一問目に質問をする予定です。

9月定例会一般質問の案内

お祀り・お祭り

八月下旬はいくつかのお祭りに参加をしました。

まずは九反田地蔵尊の夏祭り。
関ヶ原の役の後、石田三成の幼女 (天周妙終尼) は土佐の称名寺を頼って逃げ落ちました。その子は7歳にして病死。後の文政の頃 (1850年頃)、米蔵(称名寺跡=市立第一小学校跡)が鳴動することがあったので、床下を掘ってみると首のない地蔵尊と石碑を発見。石碑には「天周妙終尼 慶長十八年(一六一三)六月二十二日」と刻まれていました。この碑と地蔵尊を祀ったのが九反田地蔵尊です。市場が弘化台に移ったことと、子どもが減ってしまったために、お祭りには昔ほどの人出はないとのことですが、いまでも地域の人々にとは夏の風物詩として愛されているようです。

翌日にお邪魔をしたのが、長浜のとある福祉施設の納涼祭。雨にも関わらず地域の人々が沢山出て賑わいを見せていました。お楽しみはビンチョウマグロの解体ショー。
解体ショーって、よくよく考えるとグロテスクな言葉ですね(笑)
施設入居者と家族、そして地域の方の良き交流の場となっていました。職員、入居者、地域の人が普段から顔を合わせてコミュニケーションをとっておけば、天災等の緊急事態に直面した際には円滑に協力体制を構築することができます。

長浜に滞在すること一時間、その後あわてて移動をした先は一ノ宮、土佐神社です。
8月24日といえばしなね祭の宵祭。

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今年ははじめての宵祭から参加を致しました。20時前にくればだれでも参加できるようですので、みなさまもぜひ来年はチャレンジしてください。

 

 

 

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こちらの写真は25日の大祭直前のものです。10時からの大祭、15時からの御神幸行列に参加。お供人として大きな榊を挿したカゴを4人がかりでかつぎました。神降ろしの儀式を経て、ご祭神をお迎えしたお神輿をかついて一行は御旅所を目指します。御旅所は一宮駅の近くにありますのでそこまで県道を南下するわけですが、大人数が行列をなせば道は混雑を極めるのでした。お巡りさんの協力を得て車を捌きつつ、無事に御旅所に辿り着きました。

かつてお神輿の行き先は御旅所ではなく、船に乗って須崎の音無神社を目指したそうです。チャンスが有れば古式に立ち返りたいものですが、祭りを支える人手の高齢化もあってなかなか難しそうですね。若者諸君、8月25日は有給休暇をとってしなね様の御神幸行列に参加しましょう。

しかし祭りというものは良いものですね。ともに過ごす時間は人々の絆を結い、祭典での神への祈りは、伝統や文化に託された先人の思いを改めて知る機会となります。

燃料電池の時代

昨今紙面を賑わしている燃料電池について記事を書こうと思う。

いまから10年以上も前のこと、大学の学部3年制のころになる。
私が学んだEnvironment & Energy コースでは、再生可能エネルギーをはじめとして核融合、核分裂といったニュークリアエネルギー、メタンハイドレート、(なぜか)船舶のこと、かろうじて環境に関係しているかもしれないリモートセンシング技術等をはじめとして、燃料電池についても学ぶ機会を得た。当時は本当に研究途上といった印象で、燃料電池の試験車両の開発コストが1億円とかそのような段階だったと記憶している。

あれから時が経つのは早いもので、10年もすぎれば技術も進歩する。いまでは700万円程度で市販車が手に入るようになった。といっても燃料ステーションが全国に40箇所足らずということでまだまだ普及には時間がかかりそうだ。

しかし、この燃料電池は必ず普及すると予測している。ぜひ知っておいてもらいたいと考えて、高知県議会自民会派のみなさんを連れて昨年にはNEDOを訪問したが、そのときの記事があるので原理等について詳しく知りたい方はそちらを参照いただきたい。記事:NEDOの燃料電池

なぜ燃料電池なのかと言えば、簡単に言えばガソリンが将来にわたって高騰を続けるからだ。そしてもうひとつは二酸化炭素による地球温暖化の問題がある。

ここでもう一つの疑問が頭をもたげる。次世代自動車といえば、燃料電池以外にも電気自動車があるではないかという問いだ。これに対する答えは棲み分けがなされる、とするのが適当かもしれない。電気自動車はその名の通り、バッテリーを搭載してそこから供給される電気でもってモーターを回転させ推進力を得る。しかしこのバッテリーの容量が枷であり、容量を増やせば重量も増えるので走行距離が必ずしも順調に伸びるわけではない。一方燃料電池は水素を700気圧に圧縮して搭載をしており、1充填当たり760kmの連続走行が可能と言われている。ということであれば、都市の通勤などでは電気自動車、長距離移動の際や大型バスなどは燃料電池車を採用するということになるのではないだろうか。

さて、燃料電池押しな理由はもうひとつある。これからガソリンにかわって、水素やメタン(CH4)、エタノール(C2H5OH)が活用されるようになるからだ。エネルギーの貯蓄は従来からの大きな問題であったが、水素という形態で保存することも視野に入ってくる。さらに製品の製造過程において副次的に発生する水素ガスは、現状未利用のまま廃棄されているが、その有効利用にも道がひらけるというものだ。都市ガスのパイプラインを使えば、端末に燃料改質装置を据えるだけで比較的容易に水素を供給できるようになる。そのほかには充填時間も電気自動車に比べて格段に短いといったメリットがある。

ちなみに純粋水素以外にも、水素に窒素を加えた水加ヒドラジンや水素化カルシウムなどの液体・固体と様々あたらしい水素系燃料が開発されている。各々課題があって、まだまだ主役を張れるような段階ではないが、注目度が上がればあがるほど研究開発も進むというもの。我々の社会生活に欠かせない燃料として君臨する日もそう遠くはないはず。

敗戦の日

昨日は五台山護国神社 献水の儀に参加して参りました。神社では高知出身あるいは高知に縁故を持ち、戊辰戦争以来の国難に殉じられた四万一千四百四十四柱のご英霊をお祀りしています。

10時に厳かに祭典が始まり、ご遺族の方々による献水も恙無く行われ、11:30ごろにはすべての儀式が遅滞なく終了しました。

祭典の途中には天上の甕でもひっくり返したかの様な豪雨がありましたが、祭典が終わりに近づくにつれて雨足は弱まり、最後にはすっかり上がってしまいました。

祭典の終わりに別役宮司から挨拶がありました。雨のことにも触れられて、今日の日に天と地を結ぶもの、実りと豊かさをもたらすもの、その架け橋である雨が降ったことに神意を感じると述べられておりました。

さらに、昭和19年に護国神社を参拝した学生の感想文が神社並びに国会図書館に現存しているというお話がありました。その年に県下の学生たちが靖国神社に集団参拝をする計画がありましたが、時局がそれを許さず代わりに護国神社を訪ったとのこと。付近の家々には提灯が掲げられ、それは盛大に執り行われたそうです。そのときの学生の感想文がまた立派なそうで、みなさんに是非読んでもらいたいとのことでした。

感想文はその日は社殿に置かれているとのことでしたので、改めて拝読しに参ります旨、宮司にお伝えいたしました。

お陰様で今日がありますこと、改めて先人に感謝。よりよい日本と高知に次代につなぐべく頑張って参ります。

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