門田隆将さんの講演

先週末の25日、今週日曜日の26日、門田隆将さんの講演を聞きに行っておりました。
素晴らしい内容でしたので、その概略について紹介したいと思います。

25日@高知城ホール
「特攻、その真実」

わかる人にはわかる会場です。主催は高知大学の先生、教育学部 加藤誠之准教授です。

まず主催者挨拶として加藤先生からお話がありました。

・永遠の0が大ヒットした
・高知大学の学生たちにも大ウケ
・特攻隊の姿に感動した、お陰様で今があるとの感想
・この生徒たちの反応に危機感を抱く
・戦争の記憶が風化し
・戦争を美化する傾向にあるのではないか
・本講演を通して、特攻、その真実について触れ、多様な角度から検証することにより
・この流れに歯止めをかけたい

といった趣旨だったと思います。(この導入に怒った人が何人か帰ったようです)

そのお話の後に、満を持して門田隆将さんの講演。
ジャーナリスト門田さんが良い取材をするためにまず心がけることは、取材時には対象者のお話くださっている時間と空間に身を投じることだそうです。
今回のお話をするにあたっても、特攻隊員の生き残り、あるいは関係施設で働いていた方に直接インタビューを行いました。その際には今日の価値観を捨て去って、当時の人が何を見て聞いて感じたか、これをできるだけ忠実に追体験・再現できるよう心がけます。

さて、本題の特攻のお話ですが、

平成26年10月25日は、フィリピン、マバラカット基地から敷島隊による最初の神風特別攻撃が行われてからちょうど70周忌にあたる日。

まず特攻の前段として理解しておかなくてはいけない当時の背景は、日本軍の劣勢はもとより航空機パイロットの練度が極端に低下をしていたこと。マリアナ沖海戦、フロリダ沖海戦などでたくさんの熟練パイロットが失われていたこと。レイテ沖海戦では、海上で戦うことを前提に訓練をされていない陸軍の航空パイロットが投入されたほどの人材不足であった。天文航法によって水平や位置を把握する海軍に対して、陸軍は地文航法を採用していたため、海上で天地や方位の感覚を失ってしまい、敵機に七面鳥撃ちと呼ばれたように容易に撃墜されてしまったり、洋上に墜落することがあったということなど。

こういった背景のもと、空母への最も有効な打撃を与える方法はこれしかないということで、神風特別攻撃隊が編成されることになった。マバラカット基地で編隊を命ぜられた玉井浅一中佐のもと、甲飛10期生33名に対し、「25 番(250 ㌔爆弾)を零戦にハンダ付けして、貴様たち突っ込んでくれ」と志願が募られる。(ハンダ付けとは暗喩であって本当にハンダ付けをしたわけではない。)門田さんのインタビューによると、実際には候補者は40名程度いたとされ、その誰もが特攻の希望者を募った際には押し黙ったそうだ。その後しばらくの間を置いて、半ば雰囲気に圧された形で志願者の手があがると、上官から間髪入れずによしわかった、よろしく頼むという旨の締めの言葉があったとのこと。

神風特別攻撃隊の出だしは順調ではなく、最初の2度の出撃は空振りに終わっている。敵艦発見の報がもたらされても、特攻隊が現地に到着する数時間後には敵艦隊を見失ってしまっていたのである。軍上層部の中に特攻隊に対する冷ややかな声があがりはじめた頃、三度目の出撃にて関大尉率いる敷島隊による初の特攻がなされた。(最初の特攻が関大尉率いる敷島隊かどうかには異論もあるようです)

この第一次特攻隊には高知出身者が3名含まれており、その中の宮川正さんには豪快な逸話が遺されています。宮川さんは、周囲の張り詰めた空気の中にもかかわらず、自分は無駄死をしたくないのでどのような飛行方法が最も特攻の成功確率が高いか、みなさんの意見を聞かせていただきたいと周囲に相談したという。

戦後教育の中で、世間一般には、特攻とは天皇陛下万歳といった掛け声のもとに、悠久の大義のために、国家のために特攻がなされたと理解されているようですが、必ずしもそうではないと。関大尉におかれては、特別攻撃隊の編成の決まった20日の晩の記者取材に対して、「俺みたいな優秀なパイロットを殺してしまうなんて、もう日本はだめなんだ。もう日本はお終いだよ」そして「俺は天皇のためとか、国のために行くんじゃない。もし日本が負けたら妻が米兵に暴行されるかもしれない。だから俺は彼女を守るために行くんだ。どうだ、素晴らしいだろう。」と返答している。

さまざまな事情によって生き残られた特攻隊員に対して取材を行った際には、関大尉同様に、家族のためにいったのだという話が大勢を占めたそうです。

それともうひとつ。当時の特別攻撃隊は十代後半から20代前半の学徒出陣によって徴兵された人々が多く参加していました。旧帝大等に在籍していた彼らは、今よりもはるかに厳しい受験戦争をくぐり抜けた、同世代上位0.4%のエリートによって構成されています。親の溺愛も今以上であり、入隊式には家族が大挙して押し寄せるということで、巷の混乱を避けるために陸軍と海軍の入隊式の日を数日ずらしたほどです。さらには、艦船に配備された息子可愛さに、上陸の自由時間を少しでも長く一緒にすごすべく、海軍基地周辺に母親などが下宿をしていたこともあったそうな。そのような環境下にあった学徒たちがどのような気持ちでこの戦争、特攻に臨んだのかということには、門田さんも大変興味を惹かれインタビューを行います。

まず、彼らの多くは反戦であった。頭脳明晰な彼らからすれば戦争などするべきではないとの結論に至るのは当然のこと。それでもなぜ戦地に赴いたのかと聞くと、この戦争に負けたならば、白人がこれまでアジアやってきた過酷な植民地支配が日本にも及ぶからだと答えた。有色人種を動物としか考えていない白人から、家族を守るためには戦うしかなかった。年老いた両親を、まして自分より幼い弟、妹達を戦場におくることはありえず、自分がいくしかないのだと。そして、中でも最も頭脳明晰で操縦技術の巧みな人間から死地に赴いくことになる。特攻の生き証人はその方々に対して本当に申し訳ないと涙を流しながら語ったそうだ。

もうひとつ。元山航空隊 第一 七生隊の宮武信夫大尉(隊長)と日系二世の松藤大治少尉のお話。松藤少尉は日系二世として生まれ、小学校までアメリカにて過ごす。二重国籍であり、徴兵を断ることができるにもかかわらず(日系で断った人はいる)、彼はこれを受け入れた。

朝鮮の元山航空隊に配属されたのちは、持ち前の運動神経と頭の良さでメキメキと操縦の腕をあげ、宮武信夫大尉と並ぶまでになる。宮武大尉に寵愛された彼は、大尉が「俺は特攻に行く。お前たちもついて来い」と言うと、すかさずこれに応じたそうな。彼だけでなく、生徒たちは特攻という思想には賛同できないものの、大尉にはついていきたいと答えた。

「日本は戦争に負ける。でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」
松藤少尉が福岡の親戚に残した言葉。

特攻の前夜、人々が落ち着かないままでいると、身長183センチの松藤が大きなヤカンを2つ提げてやってきた。中にはお酒が入っており、人々は最後の盃を交わしたのだった。眠れるものもいれば、そうでないものもいた。彼なりの気遣いであった。

出撃の朝、整備兵が資材の木をプロペラにぶつけてしまい、片岡機が飛べなくなるアクシデントに見舞われる。片岡氏を残して、七生隊はつぎつぎに空に飛び立つ。そらをおおわんばかりの特攻機の姿を見て、片岡氏は実に立派、実にあっぱれと感じ、勝てるはずのない戦争にひょっとして勝てるのではないかとの錯覚をおぼえたそうだ。

4月6日、七生隊は沖縄の海にて、米軍艦隊34隻に損害を与えた。

話は遡るが、宮武信夫大尉は、出発前に自由行動を許された際に実家に足を向けたことがあった。家族からどうしてもと一筆(いわゆる絶筆)を依頼されると、彼の書いた文字は「断」の一文字であったという。将来の夢、家族や友人、さまざまな物を断っていくという壮絶な決意が伝わってくる。

特攻ののちに、宮武信夫大尉の遺品が遺族に返されることがあった。遺品の中に一つだけ足りないものがあることに気付いたそうだが、それは以前渡してあった母親の写真とのこと。彼は母親の写真とともに沖縄の海に向かい、特攻し、その命を散らしたのであった。その母親からは、門田隆将氏が太平洋戦争 最後の証言 第一部 零戦特攻編を出版した際に電話があった。作中に息子、宮武信夫の名前があることを人づてに知った母は、居ても立ってもいられず、門田氏に電話をし、「お陰様で息子の最後を知ることができました」とお礼を伝えたのであった。

時代は流れ、平成5年のこと。
元山航空基地で松藤少尉と日々を過ごした大之木氏という方(ちなみに門田氏は彼を通じて松藤少尉を知る)。彼は、松藤少尉の母、ヨシノさんがロスアンゼルスでご存命であること知ると、渡米を決意。彼は、昭和20年4月3日の最後の晩の松藤少尉の姿を、ヨシノさんに伝えに行ったのでした。

大之木氏の話を黙って聞いていたヨシノさんは、彼の話が終わると、
「男というものは、そういうもんです。国の大事には男はキパッとやらにゃ。大治は立派なことをして死んだんです。そうじゃないですか?大之木さん」車椅子に腰かけたまま、そう問いかけました。大之木氏はその瞬間、「ハイッ」と言って立ちあがって頭を下げたそうです。

大之木氏は言う、
「私たちは、たまたま1945年のあの時に軍人であり、若者でした。私は、戦友たちの死を無意味だったとか、可哀相だったとか、そういうことは言って欲しくないんです。ただ、ご苦労さん、よくやったとだけ、言ってやって欲しいです。」

 

以上、門田隆将氏講演「特攻、その真実」のおおまかなまとめです。少し調べて加筆してあったり、語尾が不統一であったりします。また何分、私の文章力が未熟なもので、伝えるべきことを伝えきれていないかもしれませんがご容赦ください。門田隆将氏が本当に言いたかったことは、翌日26日の講演の内容とあわせたときに、その輪郭がよりくっきりとします。また余力あるときに書きたいと思います。

長文失礼しました。

はりまや橋学区区民運動会

今日は清々しい晴空の下で、はりまや橋学区区民運動会が開催されています。
ちょうど良い天気というにはやや陽射しが強過ぎるようですが、昨年の雨模様のことを思えばありがたい限りです。

午前中は、二人三脚をはじめ3種目に出場しましたが午後からは別件です。
RKC文化ホールにて第五回高知県私学振興大会に出席いたします。

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「諸君、狂いたまえ!」

「諸君、狂いたまえ!」いいですね~、つぎの私のスローガンに使いたいくらいです。(9月定例会一般質問の案内)

さて、この言葉聞き覚えの有る方はなかなかの歴史通。実は幕末の傑人、吉田松陰先生の言葉なのです。吉田松陰と言えば松下村塾、松下村塾と言えば、伊藤博文、山県有朋、高杉晋作といった維新の志士たちと、つぎつぎ連想してしまい言葉がつきません。

さて、いまなぜ吉田松陰なのかと言えば、マクロな歴史的要請もあるけれどもそれは置いておいて、ミクロで言えば日本政策研究センター伊藤哲夫代表が教鞭をとられた9月の有志塾にて、吉田松陰がお題になったからなのです。

かつて私も吉田松陰先生の伝記を読んだことがあって、松下村塾にて素晴らしい人材を育て上げた人、国のことを真剣に思い、行動された人として尊敬しておりました。受講後に松蔭先生に対するイメージが変わったのかと問われれば、より一層尊敬の念が深まったことと、「諸君、狂いたまえ!」という言葉に先生のすべてが詰まってるな、もっともっと私も頑張らなくてはと思ったと、そう答えるでしょう。

人格形成や自身を奮い立たせるにあたっては、先人の活躍譚に勝るものはないように思います。小学校の時は、学校図書と移動図書の蔵書の中から、吉田松陰をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、エジソン、ファーブルなど偉人の活躍について綴られた伝記物を引っ張り出してきて貪るように読んだ覚えがあります。こんな立派な人になりたい、世のため人の為に役に立ちたいと大変影響されました。そこに小学校周辺がど田舎ということも手伝って、サボるとか、寄り道をするとか、ウソをつくなどという言葉は私に限らず、学友の頭の辞書にもなかったように思います。

話を戻しまして、吉田松陰先生の生い立ちについてふれいたいと思います。
彼は1830年に長州藩に生をうけました。若かりし頃は、兵法学者として防備の在り方はどうあるべきかについて考えることが仕事だったようです。その情熱的すぎる行動力は、さまざまなエピソードからうかがい知ることができますが、そのひとつめが東北遊学です。

1852年、水戸藩の国学とさらに国防について学ぶために遊学に行くことを決意します。同行者の宮部鼎蔵と待ち合わせした日に藩の通行手形の発行が間に合わないということで、松蔭は脱藩をして東北に向かいます。当時において脱藩は死罪相当の重罪ですから、これには宮部も肝を冷やしたと思います。

東北で国学、水戸学に触発された松蔭は、その後水戸学をさらに深め、天皇を中心とした国家観を強く持つようになります。 『身(み)皇国(こうこく)に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。』その気概が充分に伝わってくる言葉です。すめらぎの国がどういう文化・伝統を持ってここに至るのかを知らなければ、これから進むべき道もわかるはずがない、目の前の枝葉末節のことを論じても仕方がないではないか、ということだろうと思います。私のもっとも基本的な政治信条もここにあります。

1853年には全日本人が震撼したペリー来航イベントが発生します。太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず、という有名な歌が残されていますね。今日的政治家や官僚にあたる武家たちは、来航の情報も船の構造等も知っていたようで、教科書が伝えるほどにひっくり返るような事態ではなかったようです。日本の学者たちも蒸気機関について書物上では知っていて、乗船時には確認する機会も与えられました。ただ圧倒的な工業力の差、戦力差は存在するわけで、そのことに居ても立っても居られない松蔭先生は、海外で実際に学んでくるとの決心の下、密航を企てます。まず一回目は長崎のロシア船で失敗し、さらに下田で再来航したペリーの黒船に乗り込んだまではよかったが、幕府との条約に抵触するとのことで渡航を拒否されます。下船した松蔭は真面目ですね、下田で自首して牢屋に閉じ込められます。私の座右の銘、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂 そのままですね。

長州に移監された松蔭は、まもなく杉家に幽閉処分となります。1857年、叔父の松下村塾にて教鞭をとり、有名な維新の志士たちの教育にあたるのでした。彼の教育方法の特徴はその情熱にあるというべきでしょう。教材については詩経五書をはじめすきなものを門下生に選ばせて、わからないところがあれば先生が答えるという方法をとります。それだけ自由度が高ければ、松蔭先生にも当然わからないところが出てくるわけで、その時は翌日まで待つよう言ったそうです。一晩掛けて勉強をして、目を真っ赤にした先生から、ここはこういう意味ですよと門下生は説明を受けました。門下生たちは、先生の情熱的な姿勢を見るうちに、この先生のために死のう、と考えるようになったそうです。さて、実際に教鞭をとったのはどのくらいの期間か大変気になるところです。あれだけの偉人を輩出されたのですから、6年、7年は指導されたのかなと想像するところです。しかしよくよく考えてみると松蔭先生は、1859年には処刑されていますので、叔父の塾をゆずり受けてから1年程度しか期間がないことがわかります。

これは驚きです。たった1年の教育で維新の志士、しかも明治期においても中心的に活躍する人々が育て上げられていたのです。いかに教育カリキュラムや教材が整っても、熱意に勝るものはないと痛感させられるに十分なお話ですね。

1859年の処刑に関わる話を少し致しましょう。1858年、日米修好通商条約を幕府が結んだことを耳にすると、松蔭先生は、天皇陛下の許しを得ずに勝手をしたことに激怒します。すぐさま倒幕すべしと長州のお殿様に相談をしますが、これに慌てた藩によって再度投獄されます。人生通算の投獄歴は5回とのことです。周り人々、門下生も血判状をもって思いとどまるようにと説得を試みますが逆効果。一部の門下生を除き破門、絶縁を言い渡されます。

その後の取り調べの中で、聞かれてもいない老中暗殺計画を暴露して死罪が確定します。松蔭先生としては、正しいことを主張すればわかってもらえるはずだと考えていたようです。ようするにわからないやつが悪いと。その信念は死の間際まで貫き通され、「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」との彼の言葉を残し、実に堂々とした最期を遂げられたそうです。

さて、ここでようやくタイトルの「諸君、狂いたまえ!」について解説。彼自身、自分のことを狂愚と言っていたそうです。ここでの狂人とは奇人変人ではなくて、溢れんばかりの情熱でもって積極的に行動する人のことを意味しています。ですから、門下生にはことあるごとに「諸君、狂いたまえ!」と訓示していました。その影響ははかり知れず、明治維新の原動力になっただけでなく、弟子の高杉晋作は自身を東洋の一書生ならぬ一狂生と名乗り、山縣有朋は山縣狂介と名前を変えさせたそうです。「諸君、狂いたまえ!」は、大きな時代の転換点、逆境にある今日の日本と高知にこそ必要な精神だと思います。

 

ブログ書いているだけでも感化されるから不思議ですね。いつの時代でも、良いものは良い、素晴らしいものは素晴らしいのです。ぜひ、まさに人格形成期にある人達に触れて頂きたい偉人伝です。ことほど左様ですから、今回の定例会では吉田松陰先生のお話をしつつ、偉人の伝記を手に取ってもらえるような機会、環境を整えてもらいたいと第一問目に質問をする予定です。

9月定例会一般質問の案内

9月定例会一般質問

時が経つのは早いもので、議員一期目も3年と半年を迎えようとしています。
9月定例会では一般質問に下記日程にて登壇予定ですが、そういう意味では本登壇は節目的位置づけになるのでしょうか。今回も気合をいれて質問しますので、ぜひお時間に都合付きます方は傍聴にお越しいただければ幸いです。

日時 平成26年10月02日10時から正午まで
場所 高知県議会議事堂(県庁東側)
*どなたでも傍聴できます。

質問内容
1. 教育における偉人の伝記の積極活用について、主に図書館の整備
2. 幼稚園・保育所等の就学前における食育について、親育ちの観点から
3. 就学前における自制心や粘り強さといった非認知能力の開発の重要性について
4. スマートフォンアプリ、高知家の開発について
5. 県道一宮はりまや線の拡張整備について
6. 自転車マナーの向上に向けた啓発事業について
7. 初期認知症対策について
8. 少子化時代の職員採用試験のあり方について
9. 安定的森林経営のためのエネルギー植林について

総務委員会の秋田県の視察の結果やアジア情勢、最近思うことなどいろいろ書きたいことはあるのですが、なかなか筆がすすみません^^;もうしばらくお待ち下さい。

高知県難病セミナー

朝は公共交通について勉強会、午後から県主催の高知県難病セミナーに参加中。26年5月23日に「難病の患者に対する医療等に関する法律」が成立しました。いままで難病対策は予算事業で行われていましたが、今回の根拠法の制定により、疾患別による不公平感の解消や財源の安定化、治療研究の推進等が図られます。
指定難病も56から300に増えます。その他には難病患者さんの社会参加の支援や国民理解の促進などが盛り込まれています。
地方自治体の今後の課題は、追加難病に伴う新規認定者への円滑な対応、着実な医療費支援、難病相談・支援センターの強化などが挙げられます。着実な実施、また必要に応じて制度改善に努めてまいります。

お祀り・お祭り

八月下旬はいくつかのお祭りに参加をしました。

まずは九反田地蔵尊の夏祭り。
関ヶ原の役の後、石田三成の幼女 (天周妙終尼) は土佐の称名寺を頼って逃げ落ちました。その子は7歳にして病死。後の文政の頃 (1850年頃)、米蔵(称名寺跡=市立第一小学校跡)が鳴動することがあったので、床下を掘ってみると首のない地蔵尊と石碑を発見。石碑には「天周妙終尼 慶長十八年(一六一三)六月二十二日」と刻まれていました。この碑と地蔵尊を祀ったのが九反田地蔵尊です。市場が弘化台に移ったことと、子どもが減ってしまったために、お祭りには昔ほどの人出はないとのことですが、いまでも地域の人々にとは夏の風物詩として愛されているようです。

翌日にお邪魔をしたのが、長浜のとある福祉施設の納涼祭。雨にも関わらず地域の人々が沢山出て賑わいを見せていました。お楽しみはビンチョウマグロの解体ショー。
解体ショーって、よくよく考えるとグロテスクな言葉ですね(笑)
施設入居者と家族、そして地域の方の良き交流の場となっていました。職員、入居者、地域の人が普段から顔を合わせてコミュニケーションをとっておけば、天災等の緊急事態に直面した際には円滑に協力体制を構築することができます。

長浜に滞在すること一時間、その後あわてて移動をした先は一ノ宮、土佐神社です。
8月24日といえばしなね祭の宵祭。

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今年ははじめての宵祭から参加を致しました。20時前にくればだれでも参加できるようですので、みなさまもぜひ来年はチャレンジしてください。

 

 

 

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こちらの写真は25日の大祭直前のものです。10時からの大祭、15時からの御神幸行列に参加。お供人として大きな榊を挿したカゴを4人がかりでかつぎました。神降ろしの儀式を経て、ご祭神をお迎えしたお神輿をかついて一行は御旅所を目指します。御旅所は一宮駅の近くにありますのでそこまで県道を南下するわけですが、大人数が行列をなせば道は混雑を極めるのでした。お巡りさんの協力を得て車を捌きつつ、無事に御旅所に辿り着きました。

かつてお神輿の行き先は御旅所ではなく、船に乗って須崎の音無神社を目指したそうです。チャンスが有れば古式に立ち返りたいものですが、祭りを支える人手の高齢化もあってなかなか難しそうですね。若者諸君、8月25日は有給休暇をとってしなね様の御神幸行列に参加しましょう。

しかし祭りというものは良いものですね。ともに過ごす時間は人々の絆を結い、祭典での神への祈りは、伝統や文化に託された先人の思いを改めて知る機会となります。

燃料電池の時代

昨今紙面を賑わしている燃料電池について記事を書こうと思う。

いまから10年以上も前のこと、大学の学部3年制のころになる。
私が学んだEnvironment & Energy コースでは、再生可能エネルギーをはじめとして核融合、核分裂といったニュークリアエネルギー、メタンハイドレート、(なぜか)船舶のこと、かろうじて環境に関係しているかもしれないリモートセンシング技術等をはじめとして、燃料電池についても学ぶ機会を得た。当時は本当に研究途上といった印象で、燃料電池の試験車両の開発コストが1億円とかそのような段階だったと記憶している。

あれから時が経つのは早いもので、10年もすぎれば技術も進歩する。いまでは700万円程度で市販車が手に入るようになった。といっても燃料ステーションが全国に40箇所足らずということでまだまだ普及には時間がかかりそうだ。

しかし、この燃料電池は必ず普及すると予測している。ぜひ知っておいてもらいたいと考えて、高知県議会自民会派のみなさんを連れて昨年にはNEDOを訪問したが、そのときの記事があるので原理等について詳しく知りたい方はそちらを参照いただきたい。記事:NEDOの燃料電池

なぜ燃料電池なのかと言えば、簡単に言えばガソリンが将来にわたって高騰を続けるからだ。そしてもうひとつは二酸化炭素による地球温暖化の問題がある。

ここでもう一つの疑問が頭をもたげる。次世代自動車といえば、燃料電池以外にも電気自動車があるではないかという問いだ。これに対する答えは棲み分けがなされる、とするのが適当かもしれない。電気自動車はその名の通り、バッテリーを搭載してそこから供給される電気でもってモーターを回転させ推進力を得る。しかしこのバッテリーの容量が枷であり、容量を増やせば重量も増えるので走行距離が必ずしも順調に伸びるわけではない。一方燃料電池は水素を700気圧に圧縮して搭載をしており、1充填当たり760kmの連続走行が可能と言われている。ということであれば、都市の通勤などでは電気自動車、長距離移動の際や大型バスなどは燃料電池車を採用するということになるのではないだろうか。

さて、燃料電池押しな理由はもうひとつある。これからガソリンにかわって、水素やメタン(CH4)、エタノール(C2H5OH)が活用されるようになるからだ。エネルギーの貯蓄は従来からの大きな問題であったが、水素という形態で保存することも視野に入ってくる。さらに製品の製造過程において副次的に発生する水素ガスは、現状未利用のまま廃棄されているが、その有効利用にも道がひらけるというものだ。都市ガスのパイプラインを使えば、端末に燃料改質装置を据えるだけで比較的容易に水素を供給できるようになる。そのほかには充填時間も電気自動車に比べて格段に短いといったメリットがある。

ちなみに純粋水素以外にも、水素に窒素を加えた水加ヒドラジンや水素化カルシウムなどの液体・固体と様々あたらしい水素系燃料が開発されている。各々課題があって、まだまだ主役を張れるような段階ではないが、注目度が上がればあがるほど研究開発も進むというもの。我々の社会生活に欠かせない燃料として君臨する日もそう遠くはないはず。

敗戦の日

昨日は五台山護国神社 献水の儀に参加して参りました。神社では高知出身あるいは高知に縁故を持ち、戊辰戦争以来の国難に殉じられた四万一千四百四十四柱のご英霊をお祀りしています。

10時に厳かに祭典が始まり、ご遺族の方々による献水も恙無く行われ、11:30ごろにはすべての儀式が遅滞なく終了しました。

祭典の途中には天上の甕でもひっくり返したかの様な豪雨がありましたが、祭典が終わりに近づくにつれて雨足は弱まり、最後にはすっかり上がってしまいました。

祭典の終わりに別役宮司から挨拶がありました。雨のことにも触れられて、今日の日に天と地を結ぶもの、実りと豊かさをもたらすもの、その架け橋である雨が降ったことに神意を感じると述べられておりました。

さらに、昭和19年に護国神社を参拝した学生の感想文が神社並びに国会図書館に現存しているというお話がありました。その年に県下の学生たちが靖国神社に集団参拝をする計画がありましたが、時局がそれを許さず代わりに護国神社を訪ったとのこと。付近の家々には提灯が掲げられ、それは盛大に執り行われたそうです。そのときの学生の感想文がまた立派なそうで、みなさんに是非読んでもらいたいとのことでした。

感想文はその日は社殿に置かれているとのことでしたので、改めて拝読しに参ります旨、宮司にお伝えいたしました。

お陰様で今日がありますこと、改めて先人に感謝。よりよい日本と高知に次代につなぐべく頑張って参ります。

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総務委員会のち憲法改正勉強会

午前は総務委員会、午後は自民党主催の憲法改正論点勉強会に参加しました!

勉強会の講師は百地章先生です。現行憲法の不備と改正案について復習

改正には国民の過半数の賛意が必要ですがこれを獲得することは容易ではないでしょう。実現には分かり易い説明あるいは段階的改正などのテクニックを駆使する必要があります。

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集中豪雨

台風12号の影響で、2日からずっと降り続いている雨。皆さんご存知の通り、総雨量はすでに1000ミリを超え、県内各地で避難指示・避難勧告等が相次ぎました。被害は多種多様で、中山間地域での土砂災害、南国市や須崎、さらには高知市内では河川が氾濫し、床上・床下浸水を引き起こしました。

私の住まう一宮もその例外ではなく、県道の冠水までは至りませんでしたが、市道の一部や農道は水路と見紛う様相。土佐神社のすぐ西側を流れる志奈袮川の水位は一部ですでに氾濫水位を超えていました。あと10数センチほど水嵩が上がっていれば、土嚢を超えて県道一宮マルナカ店前が水浸しになっていたでしょう。98豪雨の際に前科があるそうで、そういった反省から南側の下流からジワジワと河川拡張工事が行われていますが、まだ県道北本町領石線(東西の県道)以北が未着手です。

地域の方と情報を交換して、県河川に状況を連絡。追加の土嚢が必要になるかもしれない旨を伝えました。電話を入れて5分も経たないうちに河川管理を委託された事業者の方が到着。電話以前に見回りにでていたのだろうと思います。事業者の方は手際よく土嚢の嵩上げを行ってくださいました。(↓志奈袮川の写真)

おおよそ09:00頃が水位のピークのようで、その後は雨量の低下とともに水位も下がりました。今回は幸いにして大きな被害には至りませんでしたが、週半ばには台風11号も接近するということで(昨今のゲリラ豪雨の傾向からして)予断を許さない状況です。

一方鏡川は、ダムの放流が10:30頃に行われると氾濫水位ぎりぎりに達しました(参考:国土交通省テレメーター)。事態に基づき市内全域に避難勧告が出されると、私の携帯もけたたましくお知らせ音を立てたのでした。ダムの放流は浦戸湾が満潮から干潮に転じるタイミングとダムの貯水状況を見ながら行ったのだろうと推測します。放流の判断、精神的に大変だったろうと思います。担当者様お疲れ様です。

さて、治水の大切さを考えさせられる一日でした。まだ十分な治水事業が行われておらず、氾濫した地域や、直前まで達した地域など多々見受けられます。地方の公共事業は無駄、経済性優先といった論調が続く中で一律に予算が削られてしまい、その影響から事業着工が遅れたり、見直しにより未着手のまま放置されてしまったものもあるでしょう。中・長期的あるいは最悪の場合を想定して、必要な物は必要なのだ、そうしっかりと声をあげていくのが我々の役目であるということを改めて認識いたします。

もう一点、先人たちの偉業というかご労苦には本当に頭が下がります。自分が子供の頃には、台風が来る度にあちこちの山が滑り、河川が氾濫していました。ひと通り潰れるところは潰れたと言うべきか、かつての崩れた場所はコンクリートとアンカーで固定され、河岸はコンクリート製へと変えられました。子供ながらに、うなぎやサワガニ、魚釣りができなくなって非常に残念な思いをした覚えはありますが、先人のお陰様で水害による人的・物的被害が大きく減ったのは紛れもない事実です。今後更新する際には、魚道や魚の隠れる場所など自然に配慮した工事を行っていくことも大切ですね。