私としたことが不覚でした。東京出張一日目とタイトルを付けてしまったら、必然的に二日目を書かなくてはいけなくなるのでした・・・orz
午前中は空き時間を利用して東京都写真美術館へ。
東京にいた八年間、恵比寿ガーデンプレイスにそのような美術館があるとはつゆ知らず、目黒の寄生虫博物館なら知ってたんですけどね・・・
さて、目的の展示物は下岡蓮杖の写真。下岡蓮杖(1823-1914)は日本の写真撮影の開祖、黎明期ということもあって現像液の作成に大変苦労されたようです。
実のところ下岡蓮杖さんにはあまり興味がなくて、江戸時代末期から明治にかけて日常を捉えた写真を見たかったのです。ネットのアーカイブなどで見かける写真がそこかしこにありました。人間を被写体にした写真では、いずれの方もカメラに目線を向けていないのが印象的でした。その理由としては長時間目を開けていなければいけなかったからとか、構図的な問題だとか諸説あるようです。当初は興味があまりなかった下岡蓮杖さんですが、画家⇒写真家⇒画家(主に水墨画)のキャリアパスを知った時、ちょっと親近感を感じてしまいました。画家さんも長いことやってると写実に飽きてしまうようですからその類かなと。
午後は日本政策研究センターの30周年記念講演へ。
一つ目の講演は、NHK経営委員会のひとり、長谷川三千子先生による「戦後日本の『原点』とは何か」。戦後日本の原点をどこに求めれば良いか?と聞いて答えられるひとはそうそういないだろうと思う。ちょっとひねりが聞いている人ならば日本国憲法と答えるかもしれない。さらに左派の人ならばポツダム宣言や9条などと熱く語るやもしれない。そもそも戦後日本の原点という言葉自体が保守には受け入れがたいもので、首を傾げる人もいるかもしれない。しかし、戦後日本の原点は確かに存在していたのだ。それは世間一般には人間宣言で知られる昭和二十一年一月一日の昭和天皇による「年頭の詔書」だと長谷川先生は言う。
年頭の詔書
ここに新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初国是として五箇条の御誓文を下し給へり。曰く、
一、 広く会議を興し万機公論に決すへし
一、 上下心を一にして盛んに経綸を行ふへし
一、 官武一途庶民に至る迄各々其の志を遂け人心をして倦まさらしめんことを要す
一、 旧来の陋習を破り天地の公道に基づくへ
一、 智識を世界に求め大いに皇基を振起すへし
叡旨公明正大、また何をか加へん。朕はここに誓いを新たにして国運を開かんと欲す。
国是:国の基本方針、万機:天下の政治、公論:世間一般の意見、経綸:国家の政策、一途:一体、旧来の陋習:昔からの悪い習慣、皇基:天皇が国家を治める事業の基礎、振起:ふるいおこす、叡旨:天皇(ここでは明治天皇)の考え
年頭の詔書についての昭和天皇のお考えは昭和52年に明らかにされている。
記者「詔書(昭和21年の”新日本建設に関する詔書”)のはじめに五箇条の御誓文を入れられたのは、陛下ご自身のご希望でしょうか」
昭和天皇
「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とか、そういうことは二の(次の)問題でした。当時、アメリカその他の諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは、明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないために、あの宣言を考えたのです。」
日本に生まれ、日本人の家長である天皇陛下と皇室を戴いていることに只々感謝。戦後日本の原点、確かに。と素直に受け入れられるお話でした。長い長い年月の間に変わるものもあれば変わらないものもあるのです。日本の良き伝統と文化は日本の未来のためにも守らなければいけません。
さて、ここで気になるのが「旧来の陋習」という部分。長谷川先生によるとこれは儒教のことを指しているとのこと、なるほどなるほど。本居宣長はじめ国学者による国学の台頭とともに儒教を忌避する流れが生じていた時代でもありますね。教育勅語作成にあたっても、井上毅は儒教色や宗教色を取り除く努力をしています。
二人目の講師は古森義久先生(産経新聞ワシントン駐在客員特派員)による「日本の自立と安倍外交の課題」でした。古森先生が保守に転向するきっかけとなったベトナム戦争の経験のお話は大変興味深いものでした。古森先生は、ベトナム戦争当時は毎日新聞の記者で、御多分にもれず自虐的な歴史を教わったノンポリだったそうです。衝突の激しい地域に入って戦況をレポートするということが仕事だったということですが、そこで頭をガーンと殴られるような衝撃的な経験をしたとのことでした。自虐史を学んでいた彼としては、日本人は現地人に歓迎されないものと思い込んでいたそうですが、実際は全く逆の展開。現地で会ったお年寄りが言うのには、日本人は厳しかったが、大変優しく礼儀正しい人々であったとのこと。褒められるのが得意ではないわれわれとしてはこそばゆいお話ですね。
さて、その他興味深かった話として、当時反戦気運の高かった日本では、反アメリカ、北ベトナム解放軍寄りの報道が行われ、多くの日本国民がベトナム戦争を民族解放戦争として理解していたとのこと。しかし実際にはベトナム人による対共産主義の戦争であって、アメリカと協力し、必死に抵抗していたことを現地を見て回る中で理解したのだという。残念ながら戦況は芳しくなく、南ベトナム政府は敗北し殲滅させられることになったのでした。北の解放軍によって南ベトナム政府の官邸に「独立と自由より貴重なものはない」との横断幕が掲げられると、日本で「日本の平和教育」を受けてきた古森先生は、平和より尊いものがあると考える人々がいることに大変なカルチャーショックを感じたそうです。
首都サイゴン占領を報じる際には、「サイゴン解放」と「サイゴン陥落」の見出しのどちらが適当な表現かということで左派対右派の論争がしばらく続いたそうです。一応の決着を見たのは、旧南ベトナム政府寄りの立場を採っていた人々がその後国内で差別的な扱いを受けて国外脱出したことによるそうです。彼らはボート・ピープルと呼ばれ、200~300万人に達しました。
古森先生は、これらの経験から2つの誤りに気付いたという。
ひとつは日本の戦後教育の誤り、そして2つ目は自己矛盾していると前置きをしてマスコミの誤りとおっしゃいました。会場は当然笑いに包まれたわけですが、その世界にいた人のお話ですのでよくよく考えなければいけないお話ですね。ほかには平和に対する錯誤というものがあって、これらが相俟って今日の日本の国の歪みにつながっていると総括されていました。
お話の主旨は目新しいものではありませんでしたが、実体験の有無の差というものは大変大きなものだと改めて痛感させられました。
*日本政策研究センターでは、『明日への選択』という月刊誌を発行しています。時事ネタなどについて自身のスタンスを明らかにする際に大変役立つ一冊ですので購読をおすすめします。