はりまや橋小学校区防災連合会総会

昨日は、はりまや橋 小学校区 防災連合会 総会に出席しました。 以前 北街 防災会に顧問として在席しておりましたが、 新たな小学校区の改変に伴ってはりまや橋小学校区 防災連合会に吸収されたので、引き続き 本連合会の顧問をお引き受けさせて頂いておりました。一身上の都合にて二年ぶりの出席ということで、関係者にはご無沙汰をお詫び申し上げました。

総会の報告では、1年間の間に防災力向上のために実施された様々な取り組みについて報告がありました。

一月と空けることなく、役員会やイベントが開催されております。参加者各位の 献身的な 努力の賜物と頭の下がる思いがいたしました。

防災減災及び復興活動は、その取組み主体によって自助・共助・公助に大別されます。また、時間軸も地震発災前から、発災初期、中期、長期といったスパンで取り組むべき内容が変化しますし、大別されます。

共助の取り組みである本防災会の守備範囲は、避難計画や他の避難所との連携、避難所の運営、地域の企業との連携など多岐に及びます。

揺れからいかに多くの命を救うか、そのポイントは家具の転倒防止や自宅の耐震化など自助に負うところがほぼすべてです。しかし、新聞報道等でご存知の通り、県内の耐震対策は頭打ちとなっており、約72,000棟が旧耐震のままとなっています。

本防災連合会の定める共助の範囲をはっきりと把握するものではないですが、防災減災の要諦である自助の取り組みを一層催すために、共助の主催団体がその後押しを相当積極的に実施する必要があると考えます。

とある住宅供給先メーカーから聞いた話ですが、先般の熊本地震では、耐震基準を満たした耐震等級1はもちろん、耐震等級2の建物においても多数の倒壊が確認されたそうです。その対策についても耐震等級3を採用することで対策することが可能との知見が得られています。耐震等級3を推進する是非はまた別としてこういった情報を自助で得ることは至難です。専門家を招いて意見交換や勉強会などを持ち情報の蓄積が必要ですが、そういった機会の受け皿としては、地域の人々が携わる共助の場が最も適当と考えます。

これは関連するお話ですか、仮設住宅の展開を考えたときに、耐震等級別の住宅の把握が重要となってくると考えられます。仮設住宅の必要数の見積もりと設置速度はその後の復興に大きく影響をしますので、どの段階で避難元の住宅の安全性の確認を行うか、高い確率で震災後の利用が可能であろう耐震等級3の住宅がどれだけ存在するかの戸数の把握は必要ではないか?そういった議論も今後必要ではないかと考えております。

憲法改正を推進する県民の集い

本日は講師に、八木秀次先生をお招きして憲法改正を推進する県民の集いが開催された。

八木先生は、政府の取り組んでいる道徳の教科化や民法の相続の改正に大きく係るとともに、保守の論壇として過去に数々の書籍を出版されている。私も先生の著書をいくつか拝読させていただいており、政治の道に進む決心をする上で少なくない影響を受けています。

日本国憲法の施行された1947年の5月3日、この日にはあまり意味がなくて、GHQは交付された1946年11月3日に意味を持たせたという。お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、この日は文化の日でありかつての明治天皇の誕生日である。(なお、巣鴨プリズンのA級戦犯が処刑された日は、12月23日の今上陛下の誕生日であり、ここにかれら(主にアメリカ)のメンタルをうかがい知ることができる。)

主権も自由意志もない占領下で作られた日本国憲法にふさわしいサイドストーリーである。

占領政策の主な目的は2つありました。軍事的武装解除と精神的武装解除である。これは降伏後におけるアメリカの初期対日方針の中で確認することができる。

この延長線上で作られた日本国憲法によって、今日の日本がいかなる課題に直面しているのか、私のブログを訪問する人はその道に詳しい方が多いと思いますので詳細には語りません。

八木秀次先生の考える憲法改正の本丸は、9条とのこと。

政府は加憲を言っている。憲法学者が自衛隊を違憲と言っている現状を変えるとのたてりだが、これでは弱いとのこと。

憲法には自衛隊の位置付けが書かれていない。現在の自衛隊の法的根拠はなにか?行政組織法で定められているが、これは法律である。国会議員の半数の賛成があればいつでも廃止できることを意味する。ということで憲法の中に自衛隊の位置付けを明記すべきで、それは3項をシンプルに置くことによって可能であるとのことでした。

しかし残念ながら、この八木秀次先生の着眼点はさして目新しいものとは感じなかった。自民党本部の憲法改正推進本部でもたびたび議論されている。さらに踏み込んで、とある先生からは憲法第73条の内閣の権能の中に「自衛隊を置く」と書けば良いとの意見もありました。

たとえ自衛隊を明記したとしても、自衛の範囲や戦力の程度に関する議論は相変わらず繰り返されます。行政組織の中に位置づけられ、警察法の延長線上、平時の法律でグレー事態の対処にあたらなければならないケースが生じます。

日本の主権を侵害し平和を脅かそうとするものが、その弱みに付け込まないわけがないと考えます。

月次祭

久しぶりに土佐神社の月次祭に出席しました。

ご存知ない方のために少し解説しますと、月次祭とは国や県の安寧と平和、皇室の弥栄を祈るお祭りで、土佐神社では毎月1日の10時から開催されています。

どなたでも手ぶらで参加できますので気になる方はどうぞお気軽にお越しください。

約2年ぶりにの出席ですが、出席者がとても増えていたことに驚きました。県下各地から40名ほど、外国の方が4名ほどいらっしゃいました。今日はまだ少ない方らしく、普段の月は70名を超えるそうです。

祭典が終わると、玉串の余りが配布されますが、参列者が我先にと受け取りに足を運びます。たしかに、自宅の社殿に供する榊としてこれに勝るものは無いですね。

中西祐介先生の国政報告会

中西祐介先生の国政報告会に出席しておりました。

旭ロイヤルの会場がとても賑やかでしたので、350人は超えていたように思います。

先生は、弁舌さわやかに、ご自身の公私のお話、国政への思いを語られていました。奥様のご挨拶もありましたが、手短にもかかわらず心に響く内容でした。

私も久し振りに会う方ばかりでしたが、みなさん優しくお迎えくださって、大変な励みをいただきました。応援してよかったと言われるように、日々頑張りたいと思います。

掃海艇なおしま・つのしま

呉地方隊阪神基地隊第42掃海隊 所属の掃海艇なおしま 並びに掃海艇つのしまの歓迎セレモニーに出席。

天気は大変よく やや強い日差し と 真っ青な 空の下で 2隻の軍艦をお迎えした。

ここ数年来海上自衛隊の艦船が頻繁に高知に寄港して くださっている。これは県内の自衛隊関係者及び支援団体の 長年のご尽力の賜物であり、 そのご労苦に心より御礼申し上げます。

私もいち県民いち国民として、 国防の担い手に対して ささやかながらの感謝の気持ちを 行動に示すべく 可能な限り 歓迎セレモニーには 出席することとしている。

自衛隊高知地方協力本部のをホームページには 関係情報が公開されているので皆さんも時折覗いていただいて 時間が許せば セレモニーに足をお運びいただきたくお願い申し上げます。

今日は宿毛へ

今日は、以前の勤務先でお世話になった方々に退所のご挨拶するため、宿毛を訪れました。
立田回漕店を訪れたつもりが増田商事だったりとハプニングはございましたが、無事にミッションを終えることができました。(写真がなくてごめんなさい。)

そういえば、宿毛片島から大分佐伯港を結ぶフェリーが大雨のため欠航となっていました。雨でも視界不良ということで欠航になるのでしょうか?待合室には旅行バッグを掲げた親子が待機していました。今日は全便欠航とのことなので、旅程を変更せざるを得ないようです。

明日は友人の結婚式のため朝から京都に向かい、日帰りをする予定です。

活動を再開

ご報告です。

3月末をもちまして参議院議員中西哲事務所を退所し、帰高、県政に照準を合わせた自身の政治活動を再開いたしました。

初心忘るべからず、世のため人のため、高知のため日本のために活動を続けて参ります。

ご心配をおかけしました後援会のみなさま、申し訳ありませんでした。
ご期待に応えるべく全力で頑張って参ります。
引き続きご指導ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

韓国の法則発動について:慰安婦編

岸田外相のもと行われた平成27年暮れの慰安婦合意について、私見を述べた記事があったことを思い出した。

いわゆる慰安婦合意について(平成28年1月1日)

いま読み返してみると大変読み辛い(笑)
さんざんな文章ではあるが、結論の部分を見るに、韓国の未来(現在)を正確に予測できているように思われる。

かの国の法則が予定通り発動しただけとすれば、予測できたと喜ぶのは手前味噌が過ぎるというものか。

謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。
久しぶりの更新にて、ご無沙汰を深くお詫び申し上げます。

今年も例年の如く、高知城にて日の丸の会による国旗掲揚行事に参加。のちに土佐神社の歳旦祭に参加をいたしました。

清々しい青空一杯の正月で、このような一年であって欲しいと願うばかりですが、現実はそうではないようです。

特に国家安全保障上の不安定度は、第二次大戦以降で言えば最も高い状態にあると言われております。

その懸念を裏付けるかのように、防衛大綱の刷新が提起されたり、自衛隊の新装備に関する報道をよく目にするようになりました。

軍事技術の発展やその実用化、作戦への応用は、数年、ながければ十数年のスパンを要するわけですから、私からすれば遅くじれったく感じるわけですが、今更不満を申しても仕方がないですね。

これからは、日本の潜在敵が有する軍事技術、軍事力を前に、日本の国民と国土を守るためにどの程度の備えが必要か、そのために何を優先し何を我慢しなければならないかについて、政治がそのあらかたにつき、国民に対して説明を行い、理解と協力が得られるよう努めなければなりません。

台湾、八田與一像の頭部が切断される

非常な親日国であり、日本よりもかつての日本らしいと言われる台湾において非常に残念な事件が起きた。タイトルの通りだが本題に入る前に、前回の記事で触れながった部分について補足を行いたい。 彼を知り己を知れば百戦危うからず というが本当か?というわけで半島の某国家の軍事力について紹介する。 総兵力 約119万人うち陸上兵力102万人、さらにそのうち2/3はDMZ付近に展開 戦車 3500両 艦艇 780隻 10.4万トン 作戦機 560機 第3/4世代戦闘機 MiG-23×56 MiG29x18 Su-25×34 こんなこと書かれても比較するものがなければ多いのか少ないのか、強いのか弱いのかよくわからない。安心してください、肝心なのはここからです。 北朝鮮保有弾道ミサイル トクサ 射程120km 約100発 スカッドB/C/ER 射程300/500/1000km 数百発 ノドン 射程1300km 数百発 ムスダン 射程2500-4000km 50発以上 テポドン2派生型 射程10000km 弾数不明 KN-08 射程5500km以上 弾数不明 SLBM 射程不明 弾数不明 以上からわかることは、日本(1000km以上)を射程に収める弾道ミサイルが数百発あるということ。しかも、迎撃困難なロフテッド軌道をとるものや、固体燃料によって即座に発射できるもの、さらにはTELと呼ばれる移動式の発射台に搭載されているものもある。後ろ二つの要素は、地下基地からミサイルを出して、こちらに発見される前に発射させることが可能であることを示唆している。さらには潜水艦に搭載されたSLBMによって、海中から攻撃されるケースも想定される。 発射の兆候が掴みづらい弾道ミサイルを複数同時に発射することができるということは、飽和攻撃によってこちらのBMD体制を無力化することができることを示唆している。よく、イージスシステムとPAC-3を補完するためにTHAADを配備してBMD体制を強化せよという声を聞くが、一配備あたりのカバー範囲の狭さが念頭にないものと思われる。日本全土を守るとなると、とんでもないお金をかけてシステムを購入しなければならない。ならば向こうに撃たせなければよいと考えるのが合理的であろう。これは昨今話題となっている敵基地攻撃能力(策源地攻撃能力)の話と絡んでくるが、今日の本旨ではないので後日の記事に譲りたい。   ようやく本題に入ります。 新聞やニュースで目にした人もいるかもしれないが、台湾の八田與一像の頭部が何者かにより切り落とされ、持ち去られた。私は大変悲しむとともに憤りを覚えている。 http://www.sankei.com/world/news/170418/wor1704180042-n1.html 八田與一氏をご存知ない人のために、下記に簡単に紹介する。これを機会にしっていただきたい。 台湾の方々は非常に親日的であるが、特に高齢者のそれは我々を驚かせるほどのものがある。この国民感情は昨日今日醸成されたものではなく、かつての日本統治時代が蒋介石の戒厳令下の統治時代により相対化されたことで一層強固なものとなった。(戒厳令下の話を知りたい方は、 汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語― を読んでください。) 日本の統治前の台湾は、一次産業の生産性が低く、風土病等の蔓延する「瘴癘の島」であった。日本政府の方針により、内地と同等の政策の下、公衆衛生の向上、電力の導入、鉄道・道路網整備、利水、戸籍制度の導入、地籍調査、都市計画等が行われた。その劇的な台湾の変わりようは動画のほうがわかりやすいかもしれない。

当時の日本(内地)の課題の一つに、農作物の供給不足があったことから、台湾において農地の開墾を大々的に進める必要があった。しかし、台湾南西部に位置する最も大きな面積を誇る嘉南平野は、洪水と干ばつ、塩害の三重苦が支配する不毛の大地であった。総督府土木技師として台湾に赴任をした八田は、同平野に適切な灌漑工事を施すことで肥沃な農地とすることができると考える。その工事の内容は、世界でも数例しかないほどの規模を誇る巨大ダムを造り、そこから平野に縦横無尽に走る給排水路を引くというものだ。給水路の総延長は1万キロ、排水路は広いところで100メートル幅の総延長6000キロ、給排水路総延長合計1万6000キロというとてつもない規模である。そして給排水路には当然、給水・分水・放水門をはじめ暗渠や橋など様々な構造物が必要となる。また、嘉南平野を満たすためには、ダムの水だけでは十分でないことから、濁水渓から導水工事が行われた。八田の監督の下に行われた本事業費の総額は、今日の円換算で1兆円にのぼる。 工事は必ずしも順調ではなく、爆発事故によって50名もの死者を出したこともあった。最初の事故にしてあまりの被害の大きさから、八田は工事を断念することも考えたという。しかし、嘉南の地に住む台湾人作業員の遺族から、決して工事をやめることのないようにと嘆願され、続行を決心するのである。同平野の治水は、嘉南に住む人々にとっても数百年におよぶ悲願であった。 資金難に苦しんだ際には、八田は優秀な者から現場を去ってもらうこととした。優秀な人は他の仕事でもうまくやっていけるが、そうでないものは再就職は厳しいと考えたからだ。彼らに再就職先を斡旋するとともに、工事費が改めて調達できた際には、現場に戻ってこれるようとりなすことを約束した。そして約束を果たした。 その後、約10年の歳月をかけてすべての工事が完了する。人造湖を烏山頭ダム、ダムと給排水路を含めたこの一帯を嘉南大圳と命名する。 以後、八田は「嘉南大圳の父」として敬愛され、その死後も嘉南の人々にとって忘れがたい恩人となったのであった。 完成後間もないころ、八田の銅像をつくりたいとの申し出があった。熱烈な申し入れについに折れ、堅苦しくなくありのままの姿でという条件付きでこれを認めると、同地には作業服姿で腰をおろし、頭髪をひねる姿の八田像が設置されることとなった。 昭和十七年、フィリピンへ向かう八田は、乗船が米潜水艦に撃沈されたために東シナ海で帰らぬ人となった。妻・外代樹は、終戦直後の9月1日、子供たちを残して、夫のあとを追うようにダムに身投げをしたのだった。 現地人と銅像にまつわるエピソードがある。戦局の悪化にともない金属の供出がはじまると、なんとしても八田の像を守らなければならないと考えた現地の人々により像は隠された。それから時間のたつこと三十七年後の昭和56年、台湾政府の許可を得ることなく、再び同じ場所に台座をつけて像が設置されたのであった。 以上が八田氏と銅像のあらましであるが、再現ドラマ等があがっているようなので、興味のある方はyoutube等で検索されたし。 さて、その像の設置後73年後の今、心無い人の手によって無残に破壊されたのである。私たち人間は、偉人・先人の足跡をたどり、感銘を受け、かくあらんと目標にかかげ努力を重ねる中で、より良き今日と未来を作り上げていくものである。ゆえに、厳然たる事実に目を向けず、客観的視座を持つこともなく、軽挙妄動によってこれを蔑ろにするは、自らに唾する行為であると考える。今回は幸いにして犯人が捕まったようであるが、今後二度とこのようなことがないことを祈る。 最後に長文お付き合いくださいましてらいがとうございました。日台の鎹 (かすがい) である八田氏をこれからも顕彰したいと思うし、みなさんにも広くしっていただきたいと思う。