廣井勇を顕彰する会

5月14日は、土佐の佐川町が生んだ近代土木の先駆者、『廣井勇(いさみ)を顕彰する会』および設立記念シンポジウムに出席しました。

シンポジウムの講師として招かれた古川勝三氏からは、教育者ということもあって、お話が大変上手で胸の熱くなる素晴らしいお話を拝聴することができました。

廣井勇は、1862年9月2日、佐川村内原の没落武士の長男として生まれました。明治維新によって武士の時代が終わりを告げると、極貧生活を余儀なくされます。彼が10歳の時、家を訪ねてきた叔父に、東京で勉強させて欲しいと懇願します。彼の固い決意と熱意に動かされた叔父と家族は上京を認めました。この時、姉が別れ際に「お前も侍の子です。『もし学ならずんば、死すとも帰らず』の気概を持ちなさい」と言ったそうです。

叔父の片岡家で玄関番を命じられた勇は、その仕事の傍、必死に勉強を重ねました。12歳で最難関の東京外国語大学の英語科に入学を果たしましたが、その後に工部大学校予科に転学。しかし、授業料が有償となることを受けて、無償で勉学に励むことのできる札幌農学校に転校します。片岡家に負担をかけたくないとの思いからとのこと。

札幌農学校といえば、少年よ大志を抱け で有名なクラーク博士ですが、古川氏によると、クラーク博士は半年の在任期間で大したことはしていないが、ひとつだけ功績があって、それは、教頭にウィリアム・ホィーラーを置いたことだそうです。勇はキリスト教の洗礼を受けますが、農学校の同期の中にはキリスト教思想家で有名な内村鑑三がいました。彼をして、『一時は、私が今日おるべき地位(伝道師)に君が立つのではあるまいか』と言わしめるほどキリスト教に熱心で、その契機を与えたのはホィーラーでした。廣井は伝道師ではなく、土木工学を通して、当時貧しかった日本を富ますこと、『世俗の事業に従事しながらいかに天国のために働くか』と考えていたのであり、キリスト教が彼の人格形成、またその後の人生に与えた影響は計り知れないものがありました。

19歳に農学校を卒業後、北海道開拓使に勤務、一年で開拓使が廃止となると、東京生活を余儀なくされます。アメリカに渡航し、土木工学を極めたいとの思いが募り、渡航費用捻出のために極貧生活に突入します。無駄な買い物や付き合い酒を控え、周囲は彼を守銭奴と呼んだほどとのこと。勇は、先輩方を差し置いて国費で渡航したいと言えなかったようです。

2年後の1883年に、念願のアメリカ4年、ドイツ2年の海外渡航に出発しました。留学先のアメリカでは、滞在費用を稼ぐために土木の現場に入ります。そこで働く傍、彼により英語で執筆された『プレート・ガーター建設法』は、出版されると当時アメリカ建設技術者の必携本とされるまで人気を集めました。

帰国後の1889年、母校の札幌農学校教授として迎えられます。この時彼は27歳でした。教鞭を振るうかたわら、彼は北海道庁の技師を兼任し、彼の設計・指導の下、小樽港の整備に携わります。北国の海はとても荒々しく、非常な難工事となったそうです。度重なる暴風雨により、コンクリートブロックはたびたび飛ばされ、その上日露戦争の煽りを受けて工事予算は縮減されます。しかし、廣井勇はこれらの障害を乗り越えて、築港から100年経った今でも機能する堤防を築きました。

常に第一線に立つ廣井勇の人物をよく物語エピソードがあります。小樽が大きな嵐に襲われた際、巨費を投じたクレーンが大波によってさらわれることのないよう、廣井勇は荒波を前に夜を徹して祈ったそうです。翌朝駆けつけた作業員たちが目にしたものは、凍りついたカッパを着て祈り続ける廣井の姿でした。万が一のことが起こった時には、彼は責任をとって堤防とともに死する覚悟でした。

また、廣井は「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と一切の心付けを受け取りませんでした。大学での自身の特許や発明についても、リベートを一切とりませんでした。

ことほど左様に、彼の事業の功績は数多ありますが、最も讃えられるべき功績は、優れた門弟を世に送り出したことです。東京帝大の講義では、遅刻者が出ると怒りで顔を真っ赤にして指導を行い、講義にならなかったとのこと。彼の情熱にほだされた生徒の中には、台湾の烏山頭ダム建設に一身を捧げた八田與一、小樽堤防を完成させた伊藤長一郎、パナマ運河構築に参画した青山士、鴨緑江に水豊ダムを建設した久保田豊らがおり、その人脈を廣井山脈と呼んだそうです。

1928年10月1日、廣井は67年の生涯に幕を下ろしました。内村鑑三は、葬儀の弔辞で「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、廣井君の事業やりも廣井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました。」と述べました。

高知の佐川に、明治の日本、土木の近代化の中核をお支えくださった先人がいらっしゃったことを知りませんでした。不明であったことを恥ずかしく思うとともに廣井勇氏の偉業に触れられたこと、その機会を下さった本会に心より感謝申し上げます。

当面は、氏の功績を讃えて銅像もしくは胸像を佐川町に建立するべく、本会は活動するとのことですが、その次のステージとして、彼をはじめとして土木工学の発展に尽力した人々の偉業に触れることを通じて、人材育成にも力を注ぐとのことです。偉人の顕彰を通した人材育成は、自身の政治家としてのライフワークでもあります。微力ではありますがお手伝いできれば幸甚と考えております。

廣井勇を顕彰する会HP

https://www.hiroi-isami.com

学生さんの発表

教育勅語原本が見つかる

日付をまたいでしまいましたので一昨日のことになりますが、文科省で教育勅語の原本が見つかったとの報道がありました。職員も存在を認知していなかったとのことで、そのような状況このタイミングで教育勅語の原本が発見されるとはサムシング・グレートじゃないですけど、何かしら兆しのようなものではないかと思われずにはいられないのです。

私が学生だった頃には学校では自虐史観いっぱいの教科書で日本史の教育が行われていました。教科書上で教育勅語という単語を見かけることはありましたが、その詳細な内容について解説を受けることは一切ありませんでした。ただ、その単語がでてくる文脈からは、近代日本人を洗脳するために積極的に利用されたもので大変よくない書物であるといったイメージを植え付けられたように記憶しています。あの頃は「国」とか「君が代」という言葉を出すこと、あるいは天下国家について論じることが憚られる、あるいは恥ずかしいとする風潮が蔓延していました。今の私が思い返せばとんでもない話だということになるのですが、当時はたしかにそのような空気が実在していたのです。

ただ幸いにして、大学時代の紆余曲折を経て自身で近代史を学び直すことができました。雷に打たれたような感覚・・・そういう表現を本などでは見かけることはありますが、まさか自身で体感する日が来るとは思いもよりませんでした。不鮮明・不明瞭であった日本近代史が輪郭を持ち、未完のジグゾーパズルにピースがはまっていく感覚。私達が日常や習慣、周囲の環境から感じる日本の姿と、学び直すことによって得られた近代日本史がきれいに繋がった時、ついに私は私が何者であるかを知り、ああようやく日本人になれたのだなと実感することができたことを今でも鮮明に記憶しています。翻って、それでは実感を得る前の私は何者だったのかと問うたならば、戦後を出発点に持つ新・日本人ともいうべき人種に分類されるのが適当なのだと思います。

さて、余談が過ぎました。私が教育勅語をきちんと学ぶことができたのは伊藤哲夫著の『教育勅語の真実』を読んだことがきっかけでした。それ以前にも解説書などを読んだことはあったのですが、平易な現代語訳はそれ以上でもそれ以下でもなく、世間一般に見ても良いことが書いてあるな程度の認識でした。しかし伊藤氏の教育勅語の真実は、教育勅語がつくられなければならなかった当時の時代背景、起草者である井上毅がどのように考えて作文をしたのか等についてページを割くものでした。そう、よくよく考えてみれば偶然はなくすべては必然であり、日本の教育の柱となった教育勅語ともあれば、それ相応の社会的背景を持って書かれたことは当たり前であり、そんな当然のことに思いを致さなかった自身の愚かさを深く恥じたものでした。同様の観点で見れば、古事記や神皇正統記、さらに国体の本義等は、国難の下にあってすべて書かれるべくして書かれたもののはずで、その背景を学ぶことは私達をとりまく今日的課題の解決方法を考える上でこの上なく役立つものであることは疑いようがないのです。

兎にも角にも、教育勅語の内容の素晴らしさはもちろんのこと、その起草段階および社会的背景をみなさんに知ってもらいたい、知っていただかなくてはならないとの思いから、平成25年の6月定例会には一般質問で教育勅語を取り上げました。議会にいらしゃった方々はじめ、CATVで視聴中の方にはいくらか伝わったかもしれませんが、もっともっと多くの方に是非手にとって思いを共有していただきたいものです。皆様方におかれましては、高知と日本の未来のために、ぜひ『教育勅語の真実』をご一読くださいますようお願い申し上げます。

長くなりましたが、今回の教育勅語の原本が見つかったことが、今後の企画展示などに結びつき、多くの方に教育勅語に触れていただける機会に繋がるのではないかと大変期待するところです。