イベントの重なる日

今日はイベント日和。それを見越したかのように県内各地で様々な催しが行われているようです。

かく言う私も

①朝から地区の運動会でムカデ競争に参加。

②その後は中央公園の もくもくエコランドに参加

③正午には新阪急で開催された中谷元先生の国政パーティに参加

④さらに、MOAさんの健康フェアを覗いて、

⑤最後は高知大学名誉教授 森惟明先生の健康学習講座のお手伝い。キーワードは、フレイルとサルコペニア。

てんてこ舞いな一日です。

さて、家に帰ったらトランプのINF条約脱退発言の考察記事書いてみますか…

AI信号機

ある先輩から、市内の信号機の制御がもう少しどうにかならないか、おかげで混雑がひどいし、このままでは環境にも良くないと相談を受けました。

たしかに、朝の北環状線の混雑は、日々悪化しているように感じます。
これは万々あたりに流入する人の数が増加していることが原因のようです。

また、間もなく移転とはいえ雨の前の日赤病院前の大混雑は相当のものです。押しボタン式信号機が距離をおかず二台並んでいるのは、駅周辺の再開発の際に周辺関係者の意見を反映してそのようになったのだと推察されます。二台並んでいることについては経緯があったとしても、なぜ幹線道路の信号機と連動して押しボタン信号が変わるようにしなかったのか、不思議でなりませんでした。

偶然にも某会で公安委員会の方にお会いした際に、連動の件についてお尋ねしてみると、歩行者優先だからというお答えをいただきました。

さて、ますます深まる謎。高知県(市)の信号機は、交差点間で連動・連携した信号制御がそれほど行われていないのではないかと推察いたします。

この件と関連する記事が日経xTECHに掲載されていました。重要交差点と一般交差点にわかれており、重要交差点は交通量を監視しながら手動または自動で制御されているということです。そういえば、市内にはNシステムではないカメラが設置されている通りがあったようですが、あれは信号制御のために設置されていたということでしょう。

もっと効率的に運用する方法がないのかとグーグル先生の力をお借りしていたら、下記の記事に行き当たりました。

「AI信号機」導入で交通渋滞を大幅緩和 – 米ピッツバーグの実験
AIを信号機に活用する実験が始まっている!渋滞しない未来は手に入るのか?

各々の信号機に、センサーやカメラを設置し、収集されたデータから各々の信号機が最適な信号制御を行うというもの。重要交差点が集中処理なのに対してAI信号制御は分散型です。全体を一つのシステムで集中処理すると大変だから、個々で情報収集をして状況に応じた最適解を個々に判断させるということですね。完全な独立ではなく、周辺の信号機と緩やかに連携しているのではないでしょうか。

導入されれば、信号待ちする車のないレーンの信号機が青になるところをぼーっと眺めるようなことも無くなるかもしれません。

ちなみに日本のAI信号制御の取り組みは研究段階にあるようです。
最近信号機もLED化されたばかりですから、追加装備ぐらいでAI信号制御できるようになると、費用も工事期間も省けてよいのですが。

他県のどこかの研究機関が完成させるのを待たなければならないということもないでしょう。果たして本県の大学や研究機関では取り組めないことなのでしょうか?社会実装に向けてネジを巻いていきたいですね。

5月27日海洋会慰霊祭

いまさらながらといいますか、記事にしようと思いつつも手を付けられなかった海洋会慰霊祭について。

海洋会とは旧帝国海軍時代の戦死者、出身者の物故者の顕彰、慰霊を目的に作られた組織とお聞きしております。偕行会はその旧帝国陸軍版です。

5月27日、護国神社の境内に設けられた慰霊塔前にて、旧海軍出身者を交えて、慰霊祭が厳かに催行されました。

その日は、生憎と関係イベントが重なっていたため、普段よく目にするメンバーを会場にてお見かけできず。参加者は15名程度で、海軍出身者は皆旧軍の制服を着用しておりました。

会場のBGMとして日本海軍喇叭(ラッパ)の解説集がながされていました。たくさんの演奏パターンがあって、初めて聞いた人には違いがわかりそうもありません。さすが出身者と言うべきか、そのラッパ音を聞きながら、それぞれの人が太平洋上での思い出話に花を咲かせておりました。

印象深かったお話の一つ。

大型艦に搭載された水上偵察機は、限られた甲板面積の中で運用するために蒸気カタパルトによる射出が行われていました。着水はどのように行われるのか?フロートを付けているでしょうから、水面に突き刺さることもなく、また弾かれることもない絶妙な進入角度と速度でもって滑るように着水するのだろうと推測されます。

出席者によれば、波の多少のうねりも着水には大敵とのこと。よく偵察機が沈没してしまうことがあったとのことでした。そこで波対策として艦を旋回させ同心円を描きます。するとその円の内側は波が静まり返るとのこと。偵察機のパイロットはその技量を尽くし波の影響の低い円の内側に着水するよう操縦します。

仰っている意味はわかるのですが、波を強制的に凪の状態に持ち込んで、その狭い範囲に偵察機をピンポイントで着水させるといった曲芸的な響きを帯びた話は、自身の目で見てみないと俄には信じがたいものがありますね。

さてお話をもとに戻しますと、この5月27日は慰霊祭の日であるとともに、海洋会会長古谷俊夫さん(今回で引退)の誕生日でした。偶然とはいえすごいことですね。そしてかつて、ロシアのバルチック艦隊を撃破した日を記念して制定された海軍記念日でした。

今年の5月27日は過ぎ去ってしまいましたが、また来年この日を迎えるに際しては、この国を護るために力を尽くした方々に思いを致し、感謝と哀悼の誠を捧げていただきたくお願い申し上げます。

廣井勇を顕彰する会

5月14日は、土佐の佐川町が生んだ近代土木の先駆者、『廣井勇(いさみ)を顕彰する会』および設立記念シンポジウムに出席しました。

シンポジウムの講師として招かれた古川勝三氏からは、教育者ということもあって、お話が大変上手で胸の熱くなる素晴らしいお話を拝聴することができました。

廣井勇は、1862年9月2日、佐川村内原の没落武士の長男として生まれました。明治維新によって武士の時代が終わりを告げると、極貧生活を余儀なくされます。彼が10歳の時、家を訪ねてきた叔父に、東京で勉強させて欲しいと懇願します。彼の固い決意と熱意に動かされた叔父と家族は上京を認めました。この時、姉が別れ際に「お前も侍の子です。『もし学ならずんば、死すとも帰らず』の気概を持ちなさい」と言ったそうです。

叔父の片岡家で玄関番を命じられた勇は、その仕事の傍、必死に勉強を重ねました。12歳で最難関の東京外国語大学の英語科に入学を果たしましたが、その後に工部大学校予科に転学。しかし、授業料が有償となることを受けて、無償で勉学に励むことのできる札幌農学校に転校します。片岡家に負担をかけたくないとの思いからとのこと。

札幌農学校といえば、少年よ大志を抱け で有名なクラーク博士ですが、古川氏によると、クラーク博士は半年の在任期間で大したことはしていないが、ひとつだけ功績があって、それは、教頭にウィリアム・ホィーラーを置いたことだそうです。勇はキリスト教の洗礼を受けますが、農学校の同期の中にはキリスト教思想家で有名な内村鑑三がいました。彼をして、『一時は、私が今日おるべき地位(伝道師)に君が立つのではあるまいか』と言わしめるほどキリスト教に熱心で、その契機を与えたのはホィーラーでした。廣井は伝道師ではなく、土木工学を通して、当時貧しかった日本を富ますこと、『世俗の事業に従事しながらいかに天国のために働くか』と考えていたのであり、キリスト教が彼の人格形成、またその後の人生に与えた影響は計り知れないものがありました。

19歳に農学校を卒業後、北海道開拓使に勤務、一年で開拓使が廃止となると、東京生活を余儀なくされます。アメリカに渡航し、土木工学を極めたいとの思いが募り、渡航費用捻出のために極貧生活に突入します。無駄な買い物や付き合い酒を控え、周囲は彼を守銭奴と呼んだほどとのこと。勇は、先輩方を差し置いて国費で渡航したいと言えなかったようです。

2年後の1883年に、念願のアメリカ4年、ドイツ2年の海外渡航に出発しました。留学先のアメリカでは、滞在費用を稼ぐために土木の現場に入ります。そこで働く傍、彼により英語で執筆された『プレート・ガーター建設法』は、出版されると当時アメリカ建設技術者の必携本とされるまで人気を集めました。

帰国後の1889年、母校の札幌農学校教授として迎えられます。この時彼は27歳でした。教鞭を振るうかたわら、彼は北海道庁の技師を兼任し、彼の設計・指導の下、小樽港の整備に携わります。北国の海はとても荒々しく、非常な難工事となったそうです。度重なる暴風雨により、コンクリートブロックはたびたび飛ばされ、その上日露戦争の煽りを受けて工事予算は縮減されます。しかし、廣井勇はこれらの障害を乗り越えて、築港から100年経った今でも機能する堤防を築きました。

常に第一線に立つ廣井勇の人物をよく物語エピソードがあります。小樽が大きな嵐に襲われた際、巨費を投じたクレーンが大波によってさらわれることのないよう、廣井勇は荒波を前に夜を徹して祈ったそうです。翌朝駆けつけた作業員たちが目にしたものは、凍りついたカッパを着て祈り続ける廣井の姿でした。万が一のことが起こった時には、彼は責任をとって堤防とともに死する覚悟でした。

また、廣井は「費用に余裕があるならば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と一切の心付けを受け取りませんでした。大学での自身の特許や発明についても、リベートを一切とりませんでした。

ことほど左様に、彼の事業の功績は数多ありますが、最も讃えられるべき功績は、優れた門弟を世に送り出したことです。東京帝大の講義では、遅刻者が出ると怒りで顔を真っ赤にして指導を行い、講義にならなかったとのこと。彼の情熱にほだされた生徒の中には、台湾の烏山頭ダム建設に一身を捧げた八田與一、小樽堤防を完成させた伊藤長一郎、パナマ運河構築に参画した青山士、鴨緑江に水豊ダムを建設した久保田豊らがおり、その人脈を廣井山脈と呼んだそうです。

1928年10月1日、廣井は67年の生涯に幕を下ろしました。内村鑑三は、葬儀の弔辞で「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、廣井君の事業やりも廣井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました。」と述べました。

高知の佐川に、明治の日本、土木の近代化の中核をお支えくださった先人がいらっしゃったことを知りませんでした。不明であったことを恥ずかしく思うとともに廣井勇氏の偉業に触れられたこと、その機会を下さった本会に心より感謝申し上げます。

当面は、氏の功績を讃えて銅像もしくは胸像を佐川町に建立するべく、本会は活動するとのことですが、その次のステージとして、彼をはじめとして土木工学の発展に尽力した人々の偉業に触れることを通じて、人材育成にも力を注ぐとのことです。偉人の顕彰を通した人材育成は、自身の政治家としてのライフワークでもあります。微力ではありますがお手伝いできれば幸甚と考えております。

廣井勇を顕彰する会HP

https://www.hiroi-isami.com

学生さんの発表

はりまや橋小学校区防災連合会総会

昨日は、はりまや橋 小学校区 防災連合会 総会に出席しました。 以前 北街 防災会に顧問として在席しておりましたが、 新たな小学校区の改変に伴ってはりまや橋小学校区 防災連合会に吸収されたので、引き続き 本連合会の顧問をお引き受けさせて頂いておりました。一身上の都合にて二年ぶりの出席ということで、関係者にはご無沙汰をお詫び申し上げました。

総会の報告では、1年間の間に防災力向上のために実施された様々な取り組みについて報告がありました。

一月と空けることなく、役員会やイベントが開催されております。参加者各位の 献身的な 努力の賜物と頭の下がる思いがいたしました。

防災減災及び復興活動は、その取組み主体によって自助・共助・公助に大別されます。また、時間軸も地震発災前から、発災初期、中期、長期といったスパンで取り組むべき内容が変化しますし、大別されます。

共助の取り組みである本防災会の守備範囲は、避難計画や他の避難所との連携、避難所の運営、地域の企業との連携など多岐に及びます。

揺れからいかに多くの命を救うか、そのポイントは家具の転倒防止や自宅の耐震化など自助に負うところがほぼすべてです。しかし、新聞報道等でご存知の通り、県内の耐震対策は頭打ちとなっており、約72,000棟が旧耐震のままとなっています。

本防災連合会の定める共助の範囲をはっきりと把握するものではないですが、防災減災の要諦である自助の取り組みを一層催すために、共助の主催団体がその後押しを相当積極的に実施する必要があると考えます。

とある住宅供給先メーカーから聞いた話ですが、先般の熊本地震では、耐震基準を満たした耐震等級1はもちろん、耐震等級2の建物においても多数の倒壊が確認されたそうです。その対策についても耐震等級3を採用することで対策することが可能との知見が得られています。耐震等級3を推進する是非はまた別としてこういった情報を自助で得ることは至難です。専門家を招いて意見交換や勉強会などを持ち情報の蓄積が必要ですが、そういった機会の受け皿としては、地域の人々が携わる共助の場が最も適当と考えます。

これは関連するお話ですか、仮設住宅の展開を考えたときに、耐震等級別の住宅の把握が重要となってくると考えられます。仮設住宅の必要数の見積もりと設置速度はその後の復興に大きく影響をしますので、どの段階で避難元の住宅の安全性の確認を行うか、高い確率で震災後の利用が可能であろう耐震等級3の住宅がどれだけ存在するかの戸数の把握は必要ではないか?そういった議論も今後必要ではないかと考えております。

中西祐介先生の国政報告会

中西祐介先生の国政報告会に出席しておりました。

旭ロイヤルの会場がとても賑やかでしたので、350人は超えていたように思います。

先生は、弁舌さわやかに、ご自身の公私のお話、国政への思いを語られていました。奥様のご挨拶もありましたが、手短にもかかわらず心に響く内容でした。

私も久し振りに会う方ばかりでしたが、みなさん優しくお迎えくださって、大変な励みをいただきました。応援してよかったと言われるように、日々頑張りたいと思います。

掃海艇なおしま・つのしま

呉地方隊阪神基地隊第42掃海隊 所属の掃海艇なおしま 並びに掃海艇つのしまの歓迎セレモニーに出席。

天気は大変よく やや強い日差し と 真っ青な 空の下で 2隻の軍艦をお迎えした。

ここ数年来海上自衛隊の艦船が頻繁に高知に寄港して くださっている。これは県内の自衛隊関係者及び支援団体の 長年のご尽力の賜物であり、 そのご労苦に心より御礼申し上げます。

私もいち県民いち国民として、 国防の担い手に対して ささやかながらの感謝の気持ちを 行動に示すべく 可能な限り 歓迎セレモニーには 出席することとしている。

自衛隊高知地方協力本部のをホームページには 関係情報が公開されているので皆さんも時折覗いていただいて 時間が許せば セレモニーに足をお運びいただきたくお願い申し上げます。

天皇誕生日をお祝いする県民の集い

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今年もやってまいりました、天皇誕生日をお祝いする県民の集いです。今上陛下におかれましては、健やかに82歳を迎えられ、皇后陛下ともどもご長寿であらせられますことを心よりお慶び申し上げます。

毎年高知会館で13時30分より開催しておりますので、来年出席すべしとお考えの方は今からスケジュール帳にご記入宜しくお願い致します。

また先日の「伊藤哲夫先生×ケント・ギルバート先生」のご講演に際しましてはたくさんのご来場ありがとうございました!
伊藤先生には平和主義の逆説と題してご講演を頂きました。高知新聞にはケント・ギルバートさんの講演内容が掲載されていましたが、伊藤先生の講演にもスポットをあてて頂きたかったし、ぜひ聞いていただきたかったですね。本当に素晴らしい内容でした。

その概要につきましては、また日を改めまして掲載させて頂きます。お楽しみに。
Ⅲケント・ギルバートx伊藤哲夫先生講演概要

ケント・ギルバートx伊藤哲夫 両先生による講演会のご案内

皆様大変ご無沙汰をしております。 何度か書き込みをしようとしたのですが、サーバのセキュリティが厳しくて書き込みができない日々が続いておりました。要するに、その変更に要する努力と時間に負け続けていたのです。 さて、ではなぜ今日はその高い?ハードルをクリアして書き込みをしようと思ったのかと申しますと、標記の件についてどうしてもご案内申し上げなければならないと考えたからです。 伊藤哲夫先生には、私が以前にも高知にお招きして「憲法改正の必要性」について素晴らしい講演をしていただきました。先生は「明日への選択」なる機関紙を持つ、保守系シンクタンク、日本政策研究センターの所長でいらっしゃいます。今日の保守系国会議員の知恵袋としてご活躍されているのみならず、今上陛下の大嘗祭の実施にあたってもその準備に際して大変なご尽力をされたとお聞きしております。 今回、伊藤先生には「平和の逆説」と題した内容で講演を行っていただくことになっております。おおよそ第一次世界大戦後の厭戦気運と平和主義が何を招いたかについてお話くださるのだろうと思います。 もう一人のケント・ギルバート先生。クイズ番組に出ていたことをよく覚えております。最近では、日米戦争とその後の占領政策についてアメリカを批判する本を書かれております。日本人・アジア人で同様の本を書かれている人は最近多いのですが、白人系となるとヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』やヘンリー・ストークス『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』などあまり数が多くありません。日本人以外の視点から、しかも生の講演で、近代の日本が置かれた状況、アメリカの行為についてお話を聞けるとなれば、これはみなさんにご案内申し上げるほかないわけでございます。 詳細は下記の通りです。

日本が危ないA4

日時:平成27年12月19日13時30分
場所:高新RKCホール
入場料:500円

 

 

 

 

サーバの設定も変更できましたので、これからはぼちぼちと記事を更新して参ります。

まだGHQの洗脳に縛られている日本人 抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21) 英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄(祥伝社新書) なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287)

 

 

選挙戦を終えて

平常時ではとても考えられないほどの沢山の方がアクセスくださっているようです。たいへんお待たせをしました。

ご支援下さいました皆様、誠にありがとうございました。
大変残念ながら私の不徳の致すところによりご期待に応えることができませんでしたことを心からお詫び申し上げます。

この4年間、初心を忘れることなく、主義主張を曲げることなく、言うべきことを言い、また一片の後悔もすることなく県政活動に励んでまいりました。このようなことが叶いましたのも、支援者の方々の厚い理解と協力の賜物と誠に感謝申し上げます。

しかし今回の落選は、多くの県民が期待するところには十分に応えられていなかった結果ですので、同様に活動を続ける際には、更なる刻苦勉励が必要であると厳粛に受け止めております。

今後の展開については天意にお任せするとして、とりあえずはお世話になった方々に対して、義理を欠くことのないよう努めて参りたいと思います。

高知県議会も若返りを果たしました。各位が県勢浮揚に向けてご活躍されますことを心より祈念申し上げます。

今後も時折、今まで同様に時事ネタへのコメントや思いついたことを書き残して参りますので、時々当サイトを訪れて頂ければ幸甚です。

 

さて、自分の話もそこそこに、今回の投票率の低下について触れたいと思います。今回の選挙では、新人候補者が多かったことや、お祭りのような選挙活動(今思えば候補者たちの内輪の盛り上がり)であったことから、投票率は多少上向くのではないかと予想しておりました。しかし、予想外にも下落してしまったということは、多少の新陳代謝はあるにせよ、選挙に行く層はほぼ固まってしまっているということだと思います。人口の自然減・社会減が進む中で選挙に行く層が減って、更に投票率が低下するのだとすれば、益々と盤石な組織(かといって業界票ではない)を作ることが重要になってくるのでしょうか、落下傘とか新人だとかそういう奇天烈要素の影響力は相対的に低下しているように感じます。裏切らない組織作りの秘訣といえば・・・。

投票に行かない人はどういう動機によるのか。政治がよくわからないとか、誰に入れても変わらないなどいろいろ考え方はあろうかと思います。今日、私の事務所を数学者・岡潔先生を大変敬愛されていらっしゃる方が訪ねてくださいました。岡潔先生によると、最近の有権者は自分のために一票を投じるものと考えるのだからダメなのだとおっしゃったそうです。有権者には世のため人のために一票を投じるのだという気概が求められるとういことでしょうか。政治家が襟を正すのはもちろんのこと、たしかにそういう姿勢の有権者が増えれば、政治の質も変わるかもしれませんね。