お約束からすっかり時間が空いてしまいましたことをお詫び申し上げます。
タイトルには両名の名前を書きましたが、実際の記事では伊藤哲夫先生の講演のみについて触れたいと思います。
まず導入はフランスのテロに触れて日本の憲法の緊急事態条項について。
あのテロは、従前に関係する情報を得ていたにも関わらず防げなかったという点において、警備当局の失態であった。しかし、その後の対応は実にしっかりとしたものであった。
非常事態宣言を発令し、第二第三の予定されていたテロを防いだ。さらに治安部隊にしても医療スタッフにしても、非常事態、テロを想定した入念な訓練が行われていた。非常事態に対処するための規定が憲法にない日本国において、同様の事態が迫り来る可能性は十分にある。特に来年の伊勢志摩サミットには、テロに対して屈しないとした世界各国の首脳が集まることになる。テロリストにとって、伊勢志摩サミットは攻撃目標となる可能性が極めて高い。
自分たちが平和を願っていれば、自分たちがいい人であれば、平和が維持できるというのは全くの神話である。という主旨を導入として語られた。
前述の「自分たちが平和を願っていれば、自分たちがいい人であれば、平和が維持できるというのは全くの神話である。」という部分について、第一世界大戦後のヨーロッパの平和主義の例でもってその問題点を明らかにされた。題して「平和主義の逆説について」。以下はその内容の取りまとめであり、簡略化のために多少の改変があることをご了承いただきたい。
1914年から1918年の5年間にわたって行われた第一次世界大戦。世界史始まって以来の総力戦であり、その被害は大変おぞましいく900万人以上の死者を出した。毒ガス兵器の登場もこの時で、多くの兵士が後遺症に苦しんでいた。フランス、イギリスなどの戦勝国は、勝利に喜んだというよりも、あまりの戦争の犠牲の多さに愕然として、二度と戦争をしないと考えるようになった。徹底した平和主義の台頭であり、今日の日本の置かれている状況に極めて酷似している。
その徹底ぶりを象徴するエピソードがある。もしフランスが軍事力によって脅かされるようなことがあった場合は、どうするべきかという議論があった。大政党の議員たち、一国を代表する人々らが、戦争するくらいなら降伏したほうが良いと堂々と言うような状態であった。
イギリスでも同様のことが起きていた。オックスフォード大学の学生会は、その学生会の名をもって、国家や国王の命により戦争に行くことを拒否するとする、国防拒否宣言を決議し、当時のイギリスメディアを賑わせていた。
今日の日本以上の絶対平和主義ムードにあったと言うべきかもしれない。これが第一次世界大戦後のヨーロッパの姿であった。
このような流れとは対照的に、敗戦国ドイツは臥薪嘗胆の思いで日々を送っていた。その原因は敗戦という直接的な要素だけでなく、苛烈極まる戦後賠償という間接的要因によって引き起こされたものでもある。ドイツ国内はハイパーインプレーションと約半数におよぶ高い失業率に見舞われた。そのような生活の中で醸成された外国への敵愾心につけこむように、共産党を中心とする暴力革命を扇動する勢力が跋扈した。そのような中で同様に、外国への敵愾心を利用してヒトラー率いるナチス・ドイツ党が台頭したのである。1930年頃のことである。
ヒトラーがまず行ったことは、戦後ドイツにベルサイユ条約で課されていた軍事制限条項の破棄である。これをドイツ再軍備宣言と言う。ヨーロッパ諸国は、これを遺憾に思いながらも、あれだけの戦争を行った後だから、ヒトラーもさすがに戦争までは考えてはいまいとして見て見ぬふりをした。
このヨーロッパ諸国の反応を受けて次にヒトラーが行ったことは、ラインラント進駐である。1936年3月7日にドイツが、ヴェルサイユ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに陸軍を進駐させ、同地のアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留を開始させた事件を指す。ラインラントは第一次世界大戦、ドイツ領からフランス領に編入されたライン川西側の地域。
このことに驚いたフランスは、外務大臣フランダンをイギリス・ロンドンに派遣し、イキリスの首相ボールドウィンに対して、協調して強い抗議をしてもらえないかとの要請をする。しかしボールドウィン首相は、そのような措置が戦争を招く可能性について危惧し、フランスの要請を聞き入れなかった。結局、フランスのみで遺憾のコメントを発しただけに終わり、ラインラントはドイツのなすがままとなった。抗議以外に手立てをもたず、また何らかの対抗措置も講じられないということであれば、口先だけだと足元を見られてしまうのが世の常である。第二次世界大戦後のニュールンベルグ裁判で明らかとなった事実であるが、ドイツ側資料によるとこの時のヒトラーはイギリス・フランスの動向がどのようなものになるか、戦々恐々としていたとのことである。当時のドイツは、兵力的にもそれらの国々に対抗できるレベルにはなかったからだ。もしこの時にフランスが強く出ていれば「我々はすごすごと引き下がらざるをえなかった」とはヒトラーの言葉である。また、ドイツ国防軍もヒトラーの方針に大反対であった。彼らは国際協調路線をとるべきだとの良識を持っていた。しかし結果として、俺の方が正しいというヒトラーの言葉に軍配が上がり、次の悲劇の幕が上がったのであった。もうひとつヒトラーの言葉を引用しよう、「あの国々は、自らが直接侵されればともかく、直接侵されないかぎりは、暴力の前には必ず頭を下げるのだ」。
自信を深めたヒトラーは、ドイツ南方に位置するオーストリアを飲み込みにかかる。彼の著書『我が闘争』にある、「ドイツが大きくなるためには、後背地、ドイツの力を拡大するたの根拠地を持たなくてはならない」とする考えに依る行動である。この時すでに、オーストリア先にある国、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドが彼の念頭にはあった。
ここで中国のことを思い起こしていただきたい。
習近平は次のように述べている。中国という国が大国化していくためには海洋に力を伸ばしていかなければならない。最初は東シナ海、南シナ海、しかしいずれは南西諸島(沖縄など)を超えて太平洋に力を広げていかねばならない。中国には当然太平洋に力を広げていく権利がある。いずれは、太平洋を東西に分割し、東側をアメリカ、西側を我々がおさえる。これをアメリカに認めさせる。これこそが新しい大国関係である。
ヒトラーは中国と同様のことを考えたのである。ドイツのより強固なものとするために、まずはオーストリア、さらにその先に上で述べたような国を支配下に収める必要があると考えた。ドイツにとって幸いなことに、オーストリアはドイツ語圏のドイツ民族であった。そこでヒトラーはオーストリアにナチ党を入植させる。ナチ党はドイツとの統一を目標として掲げ、過激な活動を行った。オーストリア政府がこれを取り締まるために弾圧を加えると、ヒトラーは待ってましたとばかりに介入を開始する。我が同胞がオーストリアにおいて差別され弾圧されている、これは看過することはできない事態であると大義名分をかかげた。実際のオーストリア・ナチ党の活動は過激極まりないものである。すでにドルフース首相が彼らによって暗殺され、現シュシュニック首相の暗殺計画の存在も明らかとなった。これを受けてシュシュニック首相はヒトラーに対して抗議を行う。するとヒトラーはその件について話し合おうと提案し、オーストリア国境付近のドイツ領内山荘に彼を招待する。話し合いとは名ばかりで、監禁された彼は、ヒトラーから以下のような脅しを受ける。「あなたは私が本気で軍をオーストリアに入れたならば、たったの30分ですら持ちこたえられないことを理解しているだろう。今日の夜命令したら、明日の朝にはもうオーストリアはドイツのものになっている。それをされたくなければ私のいうことを聞け。」彼の要求内容は、オーストリア・ナチ党を合法化することと、オーストリアの治安を管掌する内務大臣をナチ党のポストにしろというものだった。シュシュニック首相はやむを得ずこの脅しに屈したのであった。
本国に帰ったシュシュニック首相は、ヒトラーの謀略を無効化するために、急遽国民投票を行うことを決意する。ヒトラーの要求が国民投票によって拒否されれば、さすがにこれ以上手を出すことはできまいと考えたのだ。ヒトラーはこの動きを封じるために、国民投票前日にドイツ軍をオーストリア国境に展開し、国民投票を中止しなければオーストリアに侵攻するぞと脅しをかけた。シュシュニック首相は、一縷の望みをかけてヨーロッパ各国の大使館に接触をする。もしヒトラーがそのような行動をとった場合に、イギリスやフランス、ヨーロッパ諸国は助けてくれるだろうか、ということを確認するためだ。しかし結果は大変に非情なもので、平和主義を掲げる我々は絶対に戦争は行わない、まして他国の戦争に関わることなどありえないとの回答であった。救援はもちろん、抗議や牽制しようとする動きすら認められなかった。絶望の淵に立たされたシュシュニック首相は、国民投票の中止を決意するのであった。
ヒトラーの次の要求は、シュシュニック首相の辞任とその後任にオーストリア・ナチ党の幹部を据えることであった。これにより、オーストリアのドイツへの統合は現実のものとなる。以降、オーストリアはドイツの1州オストマルクとなり、住民は二級国民として扱われた。
オーストリア併合についてもドイツ軍幹部は大反対をした。しかし結果は前述のとおりであり、ヒトラーをますます増長させる結果となった。
次にヒトラーが目をつけたのは150万の兵を持つチェコ・スロバキアであった。ヒトラーは、オーストリア同様に、チェコ・スロバキアが多民族国家であり、ドイツ国境付近のズデーテン地方にドイツ民族が多く住むことに目をつけた。ズデーテン地方にナチ党を興し、分離独立運動を煽動した。チェコ・スロバキア政府がナチ党に対して弾圧を加えてくると、オーストリア同様の手法によりヒトラーは同政府に対する介入を行った。そしてチェコ・スロバキア政府が失点を重ねるたびに介入の度合いを増していったのである。ここにきてドイツ国防軍は、ヒトラーに対するクーデターを計画した。計画実行のトリガーは、チェコ・スロバキアに対する軍事行動であった。しかしクーデター計画は実行に移されることはなかった、なぜならば軍事行動を起こすまでもなく、チェコ・スロバキアはドイツの軍門に下ったからだ。
チェコ・スロバキアのベネシュ大統領は、ヒトラーと戦争する覚悟を有していたが、それとは対照的にヒトラーは戦争になってしまうことを恐れていた。いま戦争に突入してしまうと、チェコ・スロバキアだけでなく、イギリスとフランスとの挟撃にあってしまうからだ。ところがそこにイギリスから皮肉な救いの手が差し伸べられた。イギリスのチェンバレン首相は、ヒトラーに電話をし、「骨の髄まで平和主義者である私は、国同士が戦争で傷つけ合うようなことはあってはならないと考える。もし戦争をしないと約束してくれるのであれば、私がチェコ・スロバキアに足を運んで、ズデーテンを割譲するようベネシュ大統領を説得しましょう。」と伝えたのであった。まごうことなきチェンバレンの信念である。彼は圧力をかけるべきヒトラーではなく、ベネシュ大統領に圧力をかけた。「もしこれで戦争になれば、我々もヨーロッパも巻き込まれる。そうなったらあなたの責任だぞ」といった訳の分からない理屈で責め立てた。ベネシュ大統領としてもドイツとチェコ・スロバキア単体で戦って勝利する保証はない。そこに追い打ちをかけるようにチェンバレン首相の言葉。彼はドイツに屈し、ズデーテン地方の割譲を迫られることになる。その時の言葉は「友邦諸国は我々の犠牲によって自由と平和を贖うよう我々に勧めた。このことは彼らに我々を助ける力が欠けていたことということに他ならない。共和国大統領と我が政府には、他に取るべき道がなかった。我々は友邦諸国に見捨てられ孤立したのである。もはやこれに屈するしかない」であった。
チェンバレン首相は、この成果を土産にヒトラーに再度接触をする。ヒトラーはこのように答えた。あの約束ですね、あれから一週間経って、私の心は変わりました。ズデーテンだけでは満足できなくなったのです。わかりやすく言うと、チェコ・スロバキアの残りの部分、チェコ・スロバキア全体が私の関心事だと、要求水準を上げたのであった。チェンバレンはこの回答に驚きつつも、決断を控え、イギリス本国の閣僚と対応について協議を行った。中には要求をはねつけるべきだとする人もいたが、大多数は平和主義の日和見的見解を述べた。国際会議を開いてそこで決定しようじゃないかということでミュンヘン会談が行われることとなる。
ミュンヘン会談には、イギリスをはじめ、フランス、イタリア、ドイツ、チェコ・スロバキアが参加をした。はじめから戦争という選択肢はないのだから、ヒトラーに怖いものはなかった。押せば押すほどゴネればゴネるほど果実を得ることができる状況にあった。結果、チェコ全体ではないものの、ズデーテン地方はドイツに割譲されることが決定された。戦争は回避できたものの、チェンバレン首相はこの結果がどのように国民に受け入れられるかということを心配した。しかし、ロンドン空港に降り立った時、まったく杞憂であったことが明らかとなる。空港から宮殿までの道中は、チェンバレンに感謝し、平和の天使であると讃える人々によって埋め尽くされていたのだった。
すべてのイギリス人がこのような態度をとったわけではない。圧倒的少数ではあるが、チャーチルをはじめ反対を唱える人々がいた。チェンバレン首相の帰国後数日後、ミュンヘン会談での内容を承認するかについて、議会で討論の場がもたれた。このときに反対討論を行ったのが前述のチャーチルである。彼は、イギリスとフランスの平和主義路線ではヒトラー率いるドイツを抑えることはできないと訴えた。チャーチルは、ヒトラーのような侵略者は早い段階で抑えなければ恐ろし事態を招くと警告を発していた。しかし、彼が晩年に述べたように、そらの声は荒野の叫びにすぎなかった。ミュンヘン会談の内容について彼が言うのには、「チェンバレン首相は評価されているが、私はハッキリと言おう、みなさんの賛意はいただけないかもしれないが、このミュンヘン会談は徹頭徹尾ヒトラーへの屈服であり敗北にほかならない。侵略者に頭を下げただけのものだ。そしてこの問題は終わったのではない、これから始まるのだ。これから我々はミュンヘン会談のツケを支払わねばならないのだ。そのことを我々は考えるべきだ。」
チャーチルの発言から半年後の1939年の3月、ヒトラーはチェコ・スロバキアの北側にあるポーランドに触手をのばした。ここにきてついに、チェンバレン首相も、イギリス世論も議会も目を覚ました。要するに妥協を繰り返せば繰り返すほど、ヒトラーは頭に乗って支配を拡大していくということに今更ながら気づいたのだった。時すでに遅く、チェコ・スロバキアの150万もの軍隊がヒトラーの支配下に編入された。それだけでなく、ズデーテン地帯はヨーロッパを代表する工業地帯であり軍需工業地帯であった。ヒトラーはここで武器の大増産をはじめたのであった。
もし、ポーランドの占領が終われば、次は自分たちの番であろう。最早平和平和と念仏を唱えている場合ではない、戦う覚悟をしなければならない。チェンバレン首相は、ポーランドに万が一のことがあった場合、ポーランドを救援することを言明した。今日で言うところの集団的自衛権のことである。しかし、ポーランドは同年9月、約1ヶ月であっけなく陥落してしまう。ドイツの次の標的はフランスであった。
第2次世界大戦のはじまりである。イギリスではハト派のチェンバレン首相にかわり、タカ派のチャーチル待望論が興る。この声を受けて、1940年5月、チャーチルはイギリスの首相に着任する。同日、ドイツはオランダ・ベルギー・フランスに侵攻を開始した。この時、オランダやベルギーは中立国であり国際連合の加盟国であった。まさか自分たちがドイツに攻められるとは思ってもいなかったわけであるが、ヒトラーには関係の無い話、国際法とは破るために存在するのである。
チャーチルの回顧録に忘れられない言葉がある。「第2次世界大戦は無益な戦争であった。戦わないで済ますことのできた戦争であった。しかし我々は戦わねばならなかった。なぜそうなったのか・・それは我々は平和主義に凝り固まりすぎて平和以外にものを考えなかったからだ。」要するに人類皆が平和を願っているならばそれは結構なことだが、もしそこに侵略者が現れた時に、かえってこの平和主義はこの侵略者に力づけ、自信を与え、行動のきっかけを与えるものになってしまうのである。
もし、ヒトラーが再軍備をはじめたときに、ヒトラー許さないぞと拳を握りしめ、圧力をかけていたら、あるいはもし、ラインラント進駐の際にフランスが軍事力発動の姿勢を示していたら、ヒトラーは止まっていたのだった。これは仮定の話ではなく、今日確認されている資料を紐解く中で判明している事実なのである。チャーチルの回顧録の発言はそういった事実を踏まえて発言されたものである。
回顧録の第一章には勝者の愚行なる言葉がある。平和主義にどっぷりとつかりこんで、平和を唱えるしか能のないそういう状況に陥ったことによって、我々は大変な愚行を犯してしまった。平和のために二度とこのようなことをしてはならない、そういう思いから残された言葉であり、回顧録である。
以上の出来事から今日の日本の状況について考えてもらいたい。平和平和と叫ぶだけで、この国を守る備えを持とうとしないことがいかなる意味をもつのかについて。備えを持つことが戦争になるというような単純かつ馬鹿な話ではない。誰も戦争をしたくて安全保障法制を制定したわけではないし、自衛隊を有したわけではない。万が一のことが起きた時に、おかしな考え方を持った者が現れた時に、それは断固として許さない、という毅然とした態度を示し、ただではおかないよということを示すことによって、相手を交渉の場に引きずり出すためである。
繰り返しになるが、中国とヒトラー率いるドイツの出方は非常によく似ている。習近平曰く。中華民族の偉大な復興と、大国中国にはそれにふさわしい空間が必要であるとしている。それだけでなく、いまアメリカで大変な話題になっている本がある。著者をマイケル・ピルズベリーといい、アメリカを代表する中国研究者である。政府に対して大変な影響力を有する彼が言うのには、中国は共産中国を建ててから、100年後の2049年にアメリカを追い越し、世界の覇権国家になることを目指しているとのことだ。中国の指導者たちはそのことを世界に向かって言ってはいないが、中国の様々な秘密文献を読みこむと、中国の本当の目標というものがそこにあるということが見て取れる。チャイナウオッチャーである彼が、今日まで約50年間そのことに気付かずに騙され続けていたと告白するのだ。中国がもっとも重要視する戦略がこの騙すという行為である。我々は後進国です、発展途上国です、貧富の格差がある、あるいは中国はいずれ崩壊するかもしれないという話を巷にバラ撒いて周囲を安心させている。そうやって、アメリカや日本から投資や技術供与・支援を引き出し着実に力を蓄えている。力を、軍事力を蓄えた上で、周辺諸国や日本に対して、大陸棚からはじまり、尖閣諸島、さらに今日では沖縄の帰属について茶々を入れ始めるのである。北京大学の教授が沖縄はかつて支那の属国であったと言い始めた。ヒトラーがかつてわが闘争で言っていたようなことを中国人は言い始めたのである。我々はこのことの重みを考えなくてはならない。我々の言っていることは、いまはかつてのチャーチルのように荒野の叫びとしか見られないのかもしれない。しかし、それでも正しいことを言い続けなくてはならない。我々の子や子孫のために、いま我々がなさねばならないことなのです。(略)
大変ながくなりましたが、以上が伊藤哲夫先生のお話のまとめです。実際あったことをなぞったものなので、私がいまさら解説を加えなくても読んでいただければ言わんとすることがおわかりいただけると思います。いかんせん長過ぎる・・・ここまで読んでくださる方が1人でも多からんことを。同志が増えますように。
記事
Ⅰ新年
Ⅱ慰安婦問題について